うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。英語力と思考力。

特任講師観察記断章。英語できちんとした文章を書くために必要なのは、究極的には、狭義の英語力ではなく、広義の思考力であり、話を作る能力だ。日本語で論理的に語ったり、説得的な物語を作ったりできないとしたら、どうして英語でそのようなことができるというのか。言語運用能力において大きく劣っているはずの異言語で。日本語で書いたり話したりする訓練をもっと意識的に行う必要があるし、もっと方法論的に教える必要がある。
英語で描写させてみようとすると、面白いほどにうまくいかない。なぜだろうかと考えてみると、物事を正確かつ精密に記述する技術というのものを、これまでの学校教育のなかでいちども体系的に教わっていないからではないかという仮説に行き当たる。
読書感想文が最悪なのは、書き方を教えずに内容だけ求めるからだろう。まるで本心に近いものほど、心の底からイノセントに吐露されるものほど、よいものであるかのように。感想文が本のあらすじのまとめになるのはよくある話だが、それが問題なのは、あらすじを書いていることではなく、あらすじをあらすじとしてまとめきれていないこと、無策な垂れ流しになってしまっているところだ。
レポート程度の文章を書くうえでは、文才なるものなど、まったく無用である。必要なのは、技術と経験だ。そしてその両方が、ほとんどの学生に圧倒的に欠けている。
どうすればいいのか。
今期試してみたのは、
1)学生に何度も書き直させた後で、こちらがそれをさらに書き直し(しかし、新たな語を足したり、まったく別の表現にしたりすることは極力控え、語順だけでいかに文章の印象が変わりうるのかを見せつけてみた)、それが自身の改訂に改訂を重ねた文章とどう違うのかを考察させる
2)ピアレビューを行い、ピアのドラフトにコメントをした後、こちらが同じドラフトにどのようなコメントをつけたかを見比べさせ、自身のコメントが妥当なものであったかどうかを確認させる
というふたつのアクティヴィティ。
効果のほどはまだいまひとつ不明だが、A)英語らしいセンテンスやパラグラフを書くために必要なのは、ほんとうにちょっとした構成の問題なのだということ、B)ドラフトの問題点を見抜く批評眼がまだまだ不十分であるということは、どうやら理解してもらえたようではある。
いままでいろいろなコメントの入れ方を試してきたけれど、全面的な書き換えにまで手を出したのは今回が初めてのことになる。やってみて思ったが、心理的な手間暇となると、こちらがすべて書き直したほうが圧倒的に楽だ。ちょこちょこコメントを書き入れるより、パラグラフ全体に1つのコメントにして、パラグラフ自体を差し替えるようなコメントを付けたほうが、手間が省ける。学生の表現をできるかぎり残しながら英語らしいセンテンスに仕立て上げていくのは、詰め将棋的なゲーム感があって、わりと楽しめる。思わぬ発見だった。
こういう言い方はアレだけれど、相当贅沢なケアの提供を受けていることに、学生に気づいてほしいとは思う。
ただ、そうした気づきは、遅れてやってくるものでしかないらしい。このあいだ、2年前に教えた学生から、「先生の授業をもっとちゃんと使えばよかった(あんなにいろいろやってくれたのに、それを有効に生かすことができなかったのが今になって悔やまれる)」的なコメントを直にもらった。まあ、そういうことだ。
若者に教えるということは、気づきにいたるまでのタイムラグを受け入れることである。その場では幸福な出会いにはならないかもしれない。その場では心や体に堪えるだけでしかない労苦が、記憶のなかで発芽し、未来において花開く可能性に賭けることである。
そのような思いで、今日もまたZoomで学生たちにクドクドと語りかけてみるのであった。