うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。ほめて、しかって、しめくくる。

特任講師観察記断章。ほめて、しかって、しめくくる。学生のプレゼンについてはできるだけその場で直ちにコメントを出すようにしているし、できるだけ褒めるようにしている。まずは褒めて、持ち上げる。改善点は後から指摘する。しかし、そのさいも、「ダメだからダメだ」という頭ごなしの言い方ではなく、「それができるようになったのなら、これができないのはあまりにもったいない」「そこまでできているなら、次はこれができるようになるはずだ、そうすればさらによくなる」という未来志向で建設的な言葉をひねり出すようにしている。詐欺師めいた話術であり、自分の言葉の薄っぺらさに薄ら寒くなる瞬間がある。それでもこの即興性には独特の感興がある。

しかし、一対多の状況になればなるほど、学生の反応モードは無関心に傾いていく。褒めようが貶そうが、皮肉を込めようが怒りを注ぎ込もうが、言葉が届いていないという感覚が強まるのだが、さりとて、クラス全員の熱烈な関心がこちらの言葉に注がれるという奇跡的な状況が奇跡的に出現してしまうと、それはそれで恐ろしくなってしまう。欲しいと言っていたものが実は本当は欲しくなかったかのように。突如として立ち現れた学生の真剣さに圧倒されてしまうのだ。そして、教える側が担っている責任の重さを再確認する。そんな瞬間を今日たまたま味わってしまった。

「もっと効率的にやろう。こういうとトヨタカイゼンみたいでイヤだけれど、答案の採点で時間をかけすぎている人がけっこういる。速い人なら1分で終わるところを3分かけてる。たった2分ことだからいいじゃないかと思うかもしれないけど、この2分は氷山の一角で、こんな無駄が生活のあらゆる面にあるんじゃないか。そういう無駄を合計したら1日でどれだけの時間を無駄にしてることになるか。あなたたちはみんな忙しい生活を生きているでしょう。というか、そういう生活を生きざるをえない。過剰な情報に圧倒されながら、バイトして学費や生活費を稼がなければならない。だからこそ、効率的にやらなければいけない。まあ、効率的にやったからと言って金はたまらないかもしれないけれど、効率的にやれば時間やエネルギーに余裕はでてくるし、そうやって確保できた時間やエネルギーで何か違うことができるようになるんじゃないか。いや、べつに、その時間で勉強しろとか、真面目なことをしろとは言わない。友達と遊ぶとか、映画を見るとか、ゲームするとか、なんだっていい。でも、効率的にやれば、好きなこととか無駄なことをやるスペースができる。効率的にやることで得られそういうスペースを使って生活のクオリティーを高めてほしい。とにかく、日常を注意深く生きてほしい。何も考えずにただルーティーンを繰り返すのはやめてほしい。いろいろ試してみてほしい。通学するときに違う道を歩いてみる、自転車で裏道を行ってみる、とかね。もちろんバイトに遅れそうで急いでるときにそんな非効率な真似をする必要はないけれど、効率性だけではつまらない。あえて違うことをやってみる、あえて違うやり方を試してみる、そういうことを楽しんでほしい。春休みは自分の生活を見直すためのいい時間じゃないか。だから、自分をもういちど見直してみてほしい。いや、まあ、これは英語とはもう全然関係ないけど、あなたちの人生全体にかかわることだから、ぜひ考えてみてほしい」というようなことをその場ででっち上げながら語っていくと、教室の空気が引き締まり、学生の注意深い聴取がほとんど目に見えるようになっていった。まったく予期していないことだった。何か締めくくりの言葉を言おうとは思っていたが、とくに何か考えてあったわけではなく、採点をしている学生たちをぼんやりと見ていて思いついたことから適当に言葉を繋いでいっただけなのに、それが予想外のとんでもない注目を浴びてしまったことに、自分の軽率さが大惨事をもたらしてしまったかのような居心地悪さを覚えた。

まあ、でも今日言ったことを少々美化しつつまとめ直して、読み返してみて、そんな悪いことは言っていないことにも気がついた。とはいえ、これを来週まだある他の授業の締めくくりでただ「読む」と、学生の無反応が返ってくるような気がする。教育における本当にワクワクする瞬間は何度でも味わえるものだけれど、同じやり方では決してリプレイできない。事前によく考える、しかし現場では即興する、どうもそれが一番うまいやり方のような気がする。