うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。出席にたいする執着。

特任講師観察記断章。この出席にたいする執着は何なのか。この執着はいったいどこから来るのか。

学生から寄せられる問い合わせの筆頭に来るのは出欠確認についてのものだ。今期は、公欠扱いになるケースがいろいろとあり、欠席届が学生室経由で送られてきたりするせいもあるのか、学生から欠席届が届いているのかどうか不安ですという内容のメールが舞い込んでくる。この手の作業は基本的に後回しにしている。だから、学期末にまとめて対応しますと機械的に対応しているが、正直、とてつもなく面倒くさい。

そもそも出席点などあってないようなものだ。15回16回のうちひとつやふたつ欠席があったところで、最終成績への影響など誤差の範囲内でしかない。0.1、0.01レベルで成績に固執しているというのであれば、出欠にこだわってしまうのもまだわからなくもない。ウェブで閲覧可能な出席簿のなかに欠席があるのが生理的に許せないというのも、まだわかる。しかし、そういうわけでもないのに、なぜそこまで出席が大事なのか。なぜそこまで出欠という些事を気に病むのか。

出席にたいする執着は、大学とともに始まるのか、それとも、小中高のなかで作られ強化されてきたものなのか、どちらなのだろう。前者というのは想像しにくいが、後者というのも変な気がする。それに、大学レベルでそこまで出欠をシビアにチェックしている科目が本当にあるのか。だとすれば、この執着の出所はどこなのか。 出欠は単なる事実にすぎない。その時その場にいたのかどうか。それだけのことだ。出欠はその時の授業でやったことを身に着けたことの証明にはならない。しかし、まさにこの参加賞の平等=公平とでも言うものに、学生の不安はつなぎとめられているらしい。

「損をしたくない」という思考なのだろうか。プラスをめざすという前向きな態度ではなく、マイナスになりたくはないという後ろ向きな態度。ほかのみんながもらっているものを失いたくはないという「とりあえず」の態度。周りと同じでいられるところでは極力同じでなければならない、という内面化された同調圧力

その気持ちはわからないでもない。わからないでもないが、どうせ気にするのであれば、自分を伸ばすことにこだわってほしいと思う。