うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。「不可」を与えることにたいする抵抗。

特任講師観察記断章。「不可」を与えることに感じてしまうこの抵抗は何なのだろう。最終成績は、もうすでに確定しているセクションごとの小計を合わせるだけのことだ。各セクションの得点にしても、中間期末を除けば、短答式のものだから、恣意性の入り込む余地はほとんどない。にもかかわらず、エクセルに計算させて最終スコアが確定し、何人かが不可レベルにあることを発見すると、悪いのは自分であるという気がしてしまう。なぜなのだろう。
教えている側としての責任感はある。自分の教え方が悪かったせいか、十分にアナウンスしなかったせいか、と反省する点はもちろんいろいろある。
しかし、不可になった学生のスコアを詳しく見ていき、不可の責任がほぼ間違いなく学生本人にあること――毎回のミニテストが出来ていない、大きなミニテストのときに欠席しておいて追試を受けてもいない、そのくせ中間や期末で奮起してるわけでもない――を発見し、罪悪感の原因といえそうなものから解放されても、依然として、何とも言えないためらいは残っている。
どこかで得点をいじってやれないかと、さらに細かくスコアを見ていくと、時間ばかりがいたずらに過ぎていくし、オマケしてやれそうな箇所はだいたい見つからない。「成績に不安があるのなら個別に聞きに来い」とは繰り返しているのだから、聞きに来なかった学生の「自己責任」だと結論して何が悪いのかとは思う。しかし、どうしてもそこまでビジネスライクにはなれない。
逡巡したところで、最終的に不可を与えることになるのなら、迷うことなく不可を与えたほうが精神的に楽だし、時間の節約にもなる。理性的に考えても、プラクティカルに考えても、思考停止して不可を与えることを支持しているし、不可を与えなければいけない生徒ひとりひとりに心情的に同情しているわけではない。正直に言うと、学生の名前は覚えないことにしているので、不可になる生徒の顔は浮かんでこない。
だから、同情があるとすれば、それはきわめて抽象的なものだ。たとえば、再履修の奴をもういちど落とすのか、とか、このセクションの小計以外はそこそこの奴を落とすのか、いうように。学生のシチュエーションを考慮してしまうのだが、はたして教える側がそこまで考慮するべきなのだろうか。考慮しないといけないのだろうか。