うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。オンライン授業のさまざまな問題。

特任講師観察記断章。オンライン授業は、教える方がさまざまな問題を背負いこむことであるらしい。たとえば講義素材をアップロードするサイトの仕様からくる問題。たとえば動画の技術的な不備。
うちの大学の学内システムがお粗末なのが元凶であると思うけれど、なぜかH.264エンコードしたmp4のレクチャービデオが、ブラウザーによって再生できたりできなかったりする。情報センターに問い合わせみたが「先生のほうでいろいろ試してもらうしかありません(仕様です、どうにもなりません)」という何の役にも立たない返答。こちらからすれば、動画が正常に作動しない責任はサイトにあると思うのだけれど、学生からすれば動画提供者であるこちらに非があるように見えるだろうし、たとえそうでなかったとしても、学生たちの苦情を引き受けるのは情報センターではなくレクチャービデオ作成者である。
英語を教えているので、CD音声や動画素材を埋め込む必要があるわけだけれど、自分の音声とそれらの音量を調整する作業が面倒で手間だ。先週作ったものはそのあたりがかなり雑だったので「音量を合わせてください」というコメントが入る。まったく正しい指摘だ。しかしその的を射た一言に不思議なほど苛立っている自分がいる。
たしかにちらほらいいコメントもある。「丁寧でわかりやすいです」「アクセントの重要性が理解できました」などなど。しかし、局所的に、散発的に上がってくるコメントが、全体をどこまで正確に代表=反映しているのかが、まったくわからない。アンケートをやってみればよいだけの話かもしれないが、それだと「忖度」的なものが発生しそうな気もするし、いまなにより必要なのは、量的なものとしての全体のデータではなく、質的な意味で全体を直感することであるように思う。
全体の「色」が見たい、とでも言おうか。学生の顔、表情や態度というものが、教える行為にとってどれだけ必須の要素であったのかということに、気づかされている。個々の意見でも、統計的にまとめられた全体のデータでもなく、個の集合的な効果がわかりたいのだ。
もちろんいまのように学生たちが個として散らばっている状態だと、学生たちは「学生」という集合体にはなっていないのかもしれないし、「履修者全体」というカテゴリーを想定すること自体が的外れなのかもしれないとは思う。しかし学びは、つまるところ、「場」における「出来事」であり、場の効果のようなものを抜きにして考えるわけにはいかないはずだ。Zoomのような双方向的フォーマットならまたちがうのだろう(Zoomのグリッド・ビューを使えば、すくなくともバーチャルには、学生がスクリーンのうえで一堂に会している状態が可視化できる)。しかし、うちのようにオンデマンド型だと、そうした「学びの場」がどこに出現しているのか、そもそも出現しているのかが、まったくわからない。それが手ごたえのなさの原因のひとつかもしれない。