うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

非常勤講師観察記断章。文学的英語教育。

非常勤講師観察記断章。文学的英語教育。どうすれば英語教育は文学的になるのか。文学を教材に取り入れても、教育行為が文学的になるわけではない。重要なのは、内容ではなく、形式のほうではないか。何を教えるかではなく、どう教えるか。

文学的に教えること、それは、言葉や文章の「感じ方」を「手ほどき」することではないだろうか。それはたとえば、イントネーションを口移しに真似させるような「まねび」としての学びの実践であり、教える側が築きあげてきた感性のネットワークを比喩や身振りや図像を媒介にして直感的に伝えようとすることではないか。要するに、こちらが長年かけて培ってきたシンギュラーな感覚を、内と外の両方から、学生たちに(追)体験させるようなことではないか。

哲学が概念の学であり、社会学が類型の学であり、経済学が統計の学であり、どれもが、具体を抽象することによって普遍的なもの=真なるものに漸進的に到達しようという理性的試みであるとしたら、文学は具体的なものを特異で反復不可能な方向に突き詰めることによってシンギュラーさを手放すことなく真なるものへ一気に飛躍しようとする賭けのようなものかもしれない。教育を文学的にすることは、そうした賭けにのるリスキーな行為だとは思う。

文学的具体たる教師は、「模範」ではないし、「お手本」でもないだろう。それは誰もが到達すべき絶対的目標ではないし、誰も抗えない絶対的正解でもない。それはあくまでひとつの例であり、何かしらの歪みや誤りを抱えているだろう。しかし、そうしたネガティブさを結晶化し、純化することで、ある種の到達点を示すのではないか。別の地点や地平へジャンプするための移動式土台となるのではないか。ここで真似るべきは、教師彼自身の人格でもなければ、彼の知識というわけでもないだろう。たしかに彼の「何か」を真似るのではあるが、それは彼になるためではなく、彼が彼になったプロセスをたどることで自分(が何か)になるためだろう。

だがこの意味での文学的な教え方は、誰が教えるのかという要因に左右される部分が大きすぎる。善人だけがいい教師になる、と言いたいわけではない。言語を感じる感性は、道徳的高潔さのようなものと相関しているわけではなさそうだからだ。しかし、知識のデーターベース以上の何かを持ち合わせている存在として教壇に立つためには、「教師」以外の雑多な何かを教室に持ちこむしかないようにも思う。文学的教育は、必然的に、不純で混淆的で脱線的なのかもしれない。