うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

翻訳語考。「アンガージュマン」。

翻訳語考。「アンガージュマン」というカタカナ語をいま使ってもいいものか。かつては翻訳語として流通していたし、サルトル実存主義が喧しかった時代にあっては、そこに輝かしいオーラがただよっていたことだろう。だが2010年代にこれをカタカナ語として使うのは、時代錯誤の誹りを免れえないような気がしている。「コミットメント」こそ「アンガージュマン」の現代的アップデート語ではないかと個人的には思うけれど――もちろん強調の置き所はずいぶん変わっている、アンガジェがある状況への不可避的な巻き込まれであり、つねにすでに投げ出されている状態への強制的な囚われであり、しかしこの不自由さこそを自由として意志的かつ自発的に抱擁することであったしたら(スピノザ的な必然性の自由、ニーチェ的な運命愛)、つまり、アンガジェは客観的不自由を主観的自由に変えることであったとしたら、コミットメントは客観的自由を主観的不自由に変えることだろう、コミットするというのは、複数的に存在しているオルタナティブのひとつを自発的に選び取るさい、この自由選択を自由に解除することを自らにあえて禁じることではないか、自由に強制力と必然性とある種の宗教性を発生させることではないだろうか、だから「コミットメント」を「誓約」と訳してみてもいいかという気がしているが、この訳語は個人的な好みに合わない――engagedを「コミットしている」と翻訳するのはさすがに踏み外しがすぎる。いや、というより、「コミット」や「コミットメント」がカタカナ語として使える部類に入るのか、と問うことから考え始めないといけないのだろうか。