うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

アメリカ観察記断章。ニューヨーカーの信号無視。

アメリカ観察記断章。ニューヨーカーの信号無視。マンハッタンを歩いていると赤信号で飄々と道路を渡る歩行者に頻繁に遭遇した。律儀に信号を守っているほうが少数派だという気すらするほどに。この一見したところ無法状態に思われるものは意外と理にかなっているのかもしれない。

マンハッタンは碁盤の目状に道路が走っている。南北のアヴェニューはかなりの大通りで両方向ともに車の通行が激しいからとても信号無視では渡れない。けれども東西を貫く直線のストリートのほうは比較的幅の狭い穏やかな一方通行になっている。ストリートでは車は一方からしかこない。アヴェニューからストリートに入るまたはストリートからアヴェニューに出るために曲がるケースにほとんど出会わなかったような気もする。おそらく大きな交差点を除いて禁止されているのだろう。用途を限定したおかげで突発事態はほとんど発生しない。だからこそ信号の機能は限定的になる。自己判断の余地が大きくなる。簡素に作られているから杓子定規に従うよりも自由に創造的にやるほうが効果的なのだ。

純化によって効率を上げる。簡素にすることで使い手の自由を広げる。それがアメリカの設計精神の根底にあるように思う。都市計画のようなマクロなところから家屋だとか家電のようなミクロなところまで当てはまると思う。

多機能ではないから単機能のものをいくつも揃える必要が出てくる。これはまちがいなくスペースの無駄遣いを許容する広大な空間あってのものだ。そしておそらくは複雑な操作を可能にする共通基盤(言語能力、リテラシー能力、暗黙知)がない混成集団を前提としているせいでもあるだろう。多機能は混乱と紙一重だから。

なんでもかんでもつめこまない。オールマイティーをめざさない。細かくしすぎない。枠はおおざっぱに作って細かいところは実践レベルで調整する。雑であることも悪いことではない。