うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

植物というこの豊かな存在:ステファーノ・マンクーゾ『植物は<知性>をもっている』(NHK出版、2015)、『植物は<未来>を知っている』(NHK出版、2018)

動けないのではなく、動かない。中央集権的なシステムを持たないのではなく、そういったものを必要としない。どこか特定の部位でだけ感じたり考えたりするのではなく、全身のいたるところで感じたり考えたりしている。個体として生きるのではなく、群生し共生する。動物の生に固有の価値観にもとづいて植物の生を評価することは、植物を誤解するばかりか、植物を不当に貶めることになる。

マンクーゾがここで試みるのは、植物の生が動物のそれよりも優れていると証明することでは必ずしもない。優劣論に傾く側面がないわけではないが、植物がわたしたちとはまったくべつの生を営んできたこと、それに適応する生体構造や生存戦略を進化させてきたこと、植物が「長い進化プロセスを経て洗練された、社会的な生物」(『知性』58頁)であることを広く知らしめることが、マンクーゾの試みの中心にあるように思う。

マンクーゾの議論の射程は広い。植物の認知能力や知性といった個のレベルにとどまらず、植物の集団としての創造性、他の動植物との共生といった群のレベルにまで拡がっていく。それどころか、豊饒にして創造的な植物の生から、宇宙開拓だとか海上での食糧プラントといったSF的と言いたくなるような未来の技術を引き出そうというプロジェクトにさえ話が及ぶ(とくに『未来』のほうで)。


モジュール構造としての植物の身体

植物はモジュール構造を持っている。集約的ではないから、効率面においては動物に劣る部分があるかもしれないが、その反面、再生可能性において優れている。動物は重要な器官のストックを持たない。生命機能が集約された器官――脳、肺、内臓――は、ひとたび失くしてしまえば、補充がきかないどころか、ただちに生命の危機にさらされる。動かないという特性上、捕食リスクを必然的なものとして進化してきた植物は、一部が捕食されても全体の生命活動に支障をきたさないような、捕食をされることを逆手に取るような、ないしは、捕食されないような構造を発展させてきた。植物の身体構造を考えるうえで重要なのは、分散という概念である。

植物の体はモジュール構造になっていて、どのパーツも重要ではあるものの、どれも絶対に必要不可欠というわけではない。(『知性』54頁)

植物の場合は、あらゆる能力が体のいたるところにそなわっていて、からだのどの部分も絶対不可欠というわけではない。(同書75頁)

進化を通じて、植物は個々の器官に機能を集中させずに、体全体に機能を分散させたモジュール構造の体を作り上げてきた。これは、体の各部分を失っても、個体の生存が危険にさらされることがないための根本的な選択だ。(同書180頁)

「あらゆる能力が体のいたるところにそなわってる」植物は、動物とはまったくちがうかたちで世界を認識している。動物は目で光を感じるが、植物の光受容体の大部分は葉にある。だから、植物にとって、目を閉じるとは葉を落とすことである。そして葉を落とした木は眠りに落ちる、動物が冬眠するように。

 

植物と比べると、わたしたちはなんと貧しい存在なのだろう。

目がなければ見えず、鼻がなければ嗅げず、耳がなければ聞けず、口がなければ食べることも話すこともできない。もしかすると、触覚においてやっとわたしたちは植物のゆたかさにすこしだけ近づくのかもしれない。

 

植物は特定の器官を持つことなしに、動物がやっていることをやることができる。

では、知性はどうなのか、植物に知性はあるのか。

マンクーゾはこの問いに固執しているように見える。しかし、植物を知的存在と考えた科学者はいた。ダーウィンの息子にして、植物生理学という分野を創り出したフランシス・ダーウィンであり、進化論の提唱者のひとりであるチャールズ・ダーウィンその人である。チャールズ・ダーウィンは、晩年に書いた『植物の運動力The Power of Movement in Plants』の最終段落のなかで、植物の根に熱烈な称賛を送っている。そしてマンクーゾも根の称賛者である。

根は物理的にネットワークをつくっていて、その先端部はたえず進む前線となっている。つまり、中央に一つの指令センターをもつ動物とはちがって、根端一本一本が微小な無数の指令センターとなり、前線をつくっている。根が成長しながら収集した情報を各指令センターがまとめ、それをもとに伸長の方向を決定する。つまり、根は、一種の集合的な脳、より正確にいえば、長い根に分散された一種の知性であり、これが植物を導いていく。根一本一本が成長し、伸びながら、植物の栄養摂取と生存のために基本的な情報を手に入れるのだ。(『未来』165‐66頁)

根は感覚受容体であり、運動体であり、思考する知性である。

そして根が伸びる地中とは、植物が、ほかの植物個体の根と出会うだけでなく、ほかの生物とも出会う場所である。

「根圏」とは、根が触れている土壌の範囲のことで、そこに生息する数多くの生物も根圏にふくまれる。土壌は、一般的に想像されるような生命のかけらもないただの土くれではない。そこは無数の生物が所狭しと棲みついている濃密な世界なのだ。その世界では、微生物、細菌、菌類(キノコやカビなど)、昆虫が植物とコミュニケーションをとり、互いに協力しながら、独特の生態学的ニッチを作り上げ、うまく共生している。(130頁)

 

植物からの世界

マンクーゾの本は、わたしたちの植物理解がいかに乏しいものであるか、わたしたちがいかに植物を貧しくしてきたかを教えてくる。農業の歴史とは、食用植物の多様性の減少の歴史でもあるらしい。

かつて人類は、もっと多くの種類の植物からカロリーを摂取していた。十八世紀、ヨーロッパで手に入る食用植物の量は、今よりずっと少なかったにもかかわらず(異国のものや植民地産のものは、どれもまだ流通していなかったため)、日常的に食べる植物種の数は今日の三倍だった。それより古い時代についてはいうまでもない。農業の発明以前には、人類は数百種類もの多様な植物を食べていた。ようするに、ここ一千年で、人類の生活を支える植物の種類は次第に減り、その流れは前世紀に劇的に加速したのである。(『未来』82‐83頁)

植物は動かないように見える。それはしかし、わたしたちが植物を人間的な尺度で測っているからにすぎない。植物は動いている。しかしその動きはあまりに速すぎて人間が気づくことができない、または、あまりに遅すぎて人間には気づけない。たしかに植物は動物のようには移動できない。しかし、植物は、分泌物によって動物を動かすことができる。動かすどころか、動物を依存させ、思い通りに操ることすらできるのだ。アカシアの例は衝撃的である。 

狡猾な麻薬密売人のように、アカシアはまずアリを引き寄せ、アルカロイドが豊富な甘い蜜で誘惑し、アリが蜜への依存症に陥ると、次はアリの行動をコントロールし、アリの攻撃性や植物の上を移動する能力を高める。そのすべてが、蜜にふくまれる神経活性物質の量や質を調整するだけでできてしまう。植物にとって、無防備で受動的でありつづけていることは、決して不幸ではない。地面に根づいているからこそ、科学的な手段で動物を操作する能力を身につけられたのだから。(同書132頁)

マンクーゾの本が驚きに充ちているのは、一見したところ特殊な例に思われるものが、実のところ全く特殊ではなく、それどころか、わたしたちと植物の関係にさえ当てはまるものであることが解き明かされるからだ。わたしたちはトウガラシに操られている。

トウガラシの消費量は、世界じゅうで増えつづけている。辛い料理に暗い喜びを感じるなどという習慣がなかった国々でさえ、数年まえには考えられなかった使用法と量でトウガラシを消費するようになっている。この植物種が、人間を依存症に陥らせて完全な奴隷にするためにはじめた戦略は、勝利を収めたのだ。人間と関わることによって、トウガラシはわずか数世紀で地球全体に広まった。これほど短期間に広めることができる運び屋は、人間のほかにはいない。(同書148頁)

  

植物の世界の政治的含意

マンクーゾはわたしたちの知らないゆたかな植物の世界をあざやかに描き出す。その手腕は見事だし、ユーモアに富んだ語り口は魅力的だ。

しかし、動物的尺度で植物を評価することを諫めるマンクーゾは、「知性」という論点にこだわるあまり、植物を擬人化するという語りの戦略をとりすぎているのではないかという気もする。比喩はとっつきにくい事柄を説明するための効果的なやり方ではある。しかし、動物的価値観を植物的価値観に持ち込まないことを主張するマンクーゾが人間的な例え話を多用するのは、たとえ説明のためとはいえ、少々皮肉な感じもする。

 

マンクーゾの本が刺激的なのは、彼が植物学という安全な領域にとどまらず、そこを抜け出て、植物の生のさまざまな含意を大胆に拡げていくからであることは特筆しておきたい。そのなかで個人的に興味をそそられたのは、植物の生から引き出された、脱集権的で平等主義的な組織形成論だ。

少数が権力を握っている寡頭政治は、自然界ではめったに見られない。いわゆる”ジャングルの掟”も空想上のヒエラルキーにすぎず、陳腐なたわ言にすぎない。重要なのは、こうしたヒエラルキー構造は自然界ではうまく機能しないという点だ。自然界においては、指令センターをもたない広く分散した組織こそ効率的なのだ。集団行動について、生物学的観点から行われた最近の研究によれば、大勢による決定はほとんどいつも、少数による決定より優れている。いくつかのケースを見ただけでも、複雑な問題を解決する集団の能力には驚かされる。直接民主主義は自然に反する制度だという考えは、個人の力を正当化しようとする反自然的な願望を満たすために、人間がつくりあげて魅惑的な嘘にすぎない。(同書176‐77頁)

もちろん、ここからただちに何らかの政治的理論や道徳的教訓を引き出そうというのは、危うい行為だ。それは自然主義的誤謬(「ある」から「べき」への飛躍)と非難される行為にほかならない。それに自然界の大半において、直接民主主義的なプロセスが常態であるというのが仮に正しいとしても、それが人間に当てはまるかは別問題である。 

とはいえ、もしそのように問い返そうとするなら、わたしたちは、人間を自然界における特権的存在として扱うのか、という問題に真正面から向き合わなければならないだろう。

集団組織には、個体一つ一つの知性の総和を超えた”集団的知性”が出現する一般原理があるということだ。自然界は”強者に支配されている”という考えをいまだにもっているなら、そろそろまちがいに気づいてほしい。自然界では、決定プロセスを分かち合うことこそ、複雑な問題を正しく解決する最良の方法なのだ。(同書182頁)

人間は自然における特殊例であり、それゆえ、自然界の事実=真実に従う必要などないのか。人間は自然を超越した存在であり、それゆえ、自然を操作することを許されているのか。それとも、人間もまた、集団的知性を備えた有機体であり、ヒエラルキー的ではない意志決定プロセスを採ったほうがうまく機能するのか。

マンクーゾは現代の人間社会における集団的知性の一例としてウィキペディアのような協同的な共同プロジェクトを挙げている。しかし、インターネットにおける情報操作の可能性や暗黙的な検閲の存在が明らかになってきた今となっては、つまり、インターネットにおいて圧倒的規模のプラットフォームを運営するフェイスブックやグーグルのような私企業の怪しげな側面であるとか、SNSを通じたヘイトスピーチフェイクニュースの拡散が実際の政治や社会生活に与える深刻な影響が明らかになってきた今となっては、インターネットを集団的知性の創造性として素直に受け取ることは難しいようにも思う。

もしかすると、マンクーゾの議論に不在なのは感情や情動であり、それこそまさに、現代のインターネット空間を非合理的なコミュニケーション媒体としているものかもしれない。植物は知的であり、社会的かもしれない。では、植物は感情的でもあるのだろうか?

しかし、わたしたちがマンクーゾから、マンクーゾが語る植物の生から学ぶべきは、そうした具体的な知見というよりも、世界観や物事の感じ方や考え方といったメタ的なことなのかもしれない。人間的な「合理性とはべつの次元の合理性」(同書188頁)を探索することなのかもしれない。

 秩序が優れていると考えるのはごくふつうのことだ。だらしない生活に慣れた人でさえそうなのだから。秩序づけることは組織化することを意味する。つまり、まったく類似性をもたないものを、無理やりいっしょに押しこめる牢獄をつくることだ。そして、ヒエラルキーを、階級を、集団を、下位集団をつくることだ。私たちが何かを分類するときには、それが物理的な分類であれ精神的な分類であれ、動物の体のヒエラルキー構造をくり返し模倣し、それを再生産しているのである。(同書195)

それは、わたしたちが自明視してきた価値観を問い直し、ヒエラルキー的な組織原理を考え直し、べつのかたちで世界や自然とつながろうというプロジェクトに参加するということなのではないだろうか。植物はわたしたちを自由にしてくれるのではないだろうか。

 

翻訳のすばらしさ

翻訳がすばらしい出来であることを書かずに終わるわけにはいかない。イタリア語の原文を参照したわけではないから、訳の正しさを語ることはできないが、訳文が日本語としてきわめて高いレベルに達していることは疑いない。訳語の選択には品があり、文章には心地の良いリズムがある。

解説はごく短いが、その控えめな分量のなかで、マンクーゾの本の魅力の本質を言い当てている。これらの素晴らしい本がこれほど素晴らしい翻訳者の手に任されたことは、日本語読者にとっても原著者にとっても、幸福な出会いであったと思う。

どちらも素晴らしい本だが、1冊だけ読むなら、『未来』のほうを推す。内容的にはどちらもほとんど同じだが、具体例は『未来』のほうが詳細だし、植物の身体構造を火星探索ロボットの設計に生かすとか、海水から食べられる植物を育てるといった、わくわくするような実験的試みについて詳しく述べられているからだ。それに、『未来』のほうがマンクーゾその人の人間的魅力がストレートに伝わってくる。ただし、チャールズ・ダーウィンとフランシス・ダーウィンの植物学への傾倒に興味があるのなら、『知性』と併読することを勧めたい。