非常勤講師観察記断章。手の遅さ、地力、センス。学生が自己採点するところを眺めていると、たしかに勉強のセンスとでもいいたくなるようなものの有無を強烈に感じる瞬間がある。たとえば採点にかかってしまうスピード、たとえば答案に書きこむ小計や合計の位置、すなわち見やすさの配慮。このあたりの案件は、究極的には、勉強内容そのものとは関係ないとは思う。機械的な処理能力の遅さ(模範解答とマークシートを素早く見比べて計算する)や、空間表象の不器用さ(細かいスペースに無理矢理つめこんでみたり、集計結果があっちこっちに散らばっていたり)は、たしかに、どうでもいいことのように見える。
だが、本当にそうか?
ひとつひとつは小さなことだが、取るにたらない習慣的なことが積み重なると相当に大きいものになる。だからこそ、それ自体としてはほとんど目に見えないミクロな部分の僅かばかりの改善なしには、マクロ・レベルでの目に見える成績向上は望めないのではないか。答案の文字配列に空間的均整が生まれてきたからといって、それで点数が必然的に向上するわけではない。しかし、そうした勉強「外」の事柄においてこれっぽっちも美的感性を持ちあわせておらず、それゆえ、自己フィードバックもできなければ、帰納法的に自分なりのメソッドを組み立てられないようでは、どこかで頭打ちになってしまうのではないか。身体動作や生活習慣の常識の組み直しを経由させれば、学びはもっと上手くいくのではないか。
しかし誰がそれを担うべきなのだろう?
大学教育は、そうした常識の手前の鍛錬(授業中にスマホは見ない、など)を、授業成立のための単なる必要条件とみなしているようなきらいがある。それに、こうした「よい習慣」の形成を、効率主義やコストパフォーマンス思考に還元させてしまってはいけないはずだ。迅速かつ正確なタスクの完遂は、Amazon倉庫でのピックアップ作業だとか、運送業者による宅配作業ときわめて親和性が高い。そういうものを学生に仕込むことは、現代の市場が欲している有能な労働奴隷を生産することに寄与してしまう可能性がある。というか、「習慣を見直そう」的な話は、いまある社会秩序を肯定したうえで自己利潤最大化戦略を模索するような(つまり、社会そのものを変えるのは最初から断念して、無理のない範囲で楽に自分を変えられる道を探ることを唯一の有望な生存戦略として掲げる)自己啓発セミナーや(似非?)心理学的な「解説」にすでに絡めとられてしまっているのではないか。
それでも、効率は求めたい。学生の手の遅さを看過するわけにはいかない。もちろん、ここで効率を依然として好んでしまう自分にテクノクラート的性向があることは否定できないし、それは自分という人間の作られ方を考えた場合、仕方ないとしか言いようのない悪癖だとは思う。しかし、能率の向上が我々に余暇を与え、それが文化的なものを生み出す土壌となってきたことは人類学的に正しいと思うし、無駄の削減によって時間的にも精神的にも余裕が生まれることは確かだろう。
いくつかの問い。1)効率性というものを複数的に捉えられるか。最適化は外在的な指標だけではなく、個人的な充足感も絡めて考えていかなければならないだろう。2)効率性の思考や行動を、何か別のものとつなげていけるか。効率によって生まれた余裕をすでにあるもので満たすのではなく、フリースペースとしてキープすること、まだないものをもたらすための余白にすること、そういう方向に持っていけないか。3)常識以前の教育を、学術内容と本質的なかたちでコネクトできないだろうか。イデオロギーを教えることは重要かもしれないが、それだけでは、マッチョな左翼だとか、ミソジニスティックなリベラルだとか、右翼的なものをつねにすでに血肉化しているものしか出てこないように思う。効率に限らず、ミクロな生成変化を補助できないか。バタフライ効果のようなかたちで学生をデモクラシーに誘導できないか。大学教育のユートピア的可能性はこのあたりにあるような気がするというのが今学期8コマTOEICを教えた結果の暫定的結論。