うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

ふじのくに⇔せかい演劇祭2019、宮城聰演出、唐十郎『ふたりの女』

20190428@舞台芸術公演「有度」

面白そうなテクストであることはわかったし、興味惹かれる演出ではあったけれど、正直に言うと、入りこめない感じがした。それはもうほとんど直感的なもので、言葉を費やして言い訳するより、ただシンプルに「合わなかった」と言ってしまうだけでいいのかもしれないがーーあらゆる種類のパフォーマンスを好きになる必要はないだろうし、そんなことは不可能であるようにも思うーーそれではあまりになにか悔しい感じがするので、趣味が悪いことも、無様であることもすべて承知の上で、この入りこめなさの正体の説明をあえて試みてみる。

 

テクストの構造:三角関係とアリア歌いたち

唐十郎のテクストは源氏物語本歌取りである。ロクジョウの生霊がアオイを呪い殺してしまうエピソードが元になっている。ただし、「ふたりの面妖があなたに絡む」と副題にあるように、ここにはふたりの妖なる存在がいる。ひとりめの面妖は精神病院で「あなた」と絡んでくるロクジョウである。そしてヒカルを経由して、ロクジョウの妖気がアオイに感染する。ロクジョウがヒカルに預けた鍵が、アオイにロクジョウが憑依する依代となるかのように。

物語が進むに連れて、ロクジョウは狂気から正気に返っていくように見えるが、妊娠中のアオイは正気から狂気に登りつめ、そして命を落とす。狂気を装ったロクジョウの罠にかかったのかどうか、ヒカルは真相を究明しようと、始まりの場所である精神病院に戻るが、コレミツは助けにならない。

ロクジョウ本人を問いただそうとするヒカルだが、獣のように這いつくばるロクジョウと二足で立って見下ろすヒカルのにらみ合いの円舞は、膝を付いたヒカルをロクジョウが抱きすくめ、ヒカルのあたまに砂をかけることで決着する。それはヒカルが彼自身は狂うことなしに、狂気の領域に引き入れられた瞬間だったのだろうか。

ヒカル/アオイ/ロクジョウの三角関係がプロットの縦糸だとすると、これにいくつかの横糸が折り重なる。精神病院の老人、サーキット場の駐車場係、警官(?)、精神病患者の弟、不動産屋(?)。それらはどうも、狂気と死(生命)の領域を架橋するような小筋であったように思う。

宮城は「演出ノート」のなかで、『ふたりの女』はオペラ的構造を持っており、レティタティーヴォ、アリア、デュエットにわかれていると述べているが、これらの小筋はアリア的なもの、それもメインプロットを進展させるというより、その主題の脱線的変奏であり、物語世界の厚みを出すための補強材のようなものであったようだ。

要するに、テクストの構造自体が意図的に拡散的で多方向的であり、故意に作られた非−統一があるのだろう。自然主義的に「閉じた」テクストや、モダニズム的に「自己言及的な」テクストに慣れ親しみすぎている身からすると、この手の「開いた」テクストにたいする経験値が足りないのだと思う。

 

演出の問題:脱コンテクスト化

唐のテクストは60年代的なものを取り込んでいる。冒頭の革命についてのアジ演説はきわめてわかりやすい例だ。しかしこの参照がアイロニックなのか、批判的なのか、そこは断定しづらい。アジ演説をぶちあげるのが精神病院患者というのは、あきらかに皮肉な設定ではあるが、だからといって演説内容が完全なナンセンスというわけでもない。精神病院を社会の縮図とするのはチェーホフあたりの本歌取りだろうし、その意味ではオーソドックスな手法でもある。

しかしながら、「平成版」と銘打たれた本演出では、オリジナルなテクストにあったはずの昭和的な参照項がかなり脱色されている。冒頭の精神病院が60年代学生運動の縮図だとすると、それを銀色っぽい作業服と黄色のテープが貼ってあるヘルメット姿の俳優たちに演じさせることは、60年代的な闘争をSF的というか脱時代的なコンテクストへと移し替えることになるのではないか。というのも、これらの装いはとりたてて「平成的」というわけでもないのだから。というより、ここでいう「平成版」とは、「平成という時代の風俗にアップデートされた」という意味ではなく、「平成という時代に上演された」ぐらいの意味でしかないような気もした。

脱コンテクスト化、脱時代化は一貫していた。ヒカルやコレミツのまとう白衣はベージュのコートであるし、看護婦の白衣も似たようなものである。アオイにしてもロクジョウにしても、昭和がかったところはほとんどない。アリア歌いたちはそもそも制服的な出で立ちだ。

しかし、見た目は脱コンテクスト化できても、言葉はオリジナルのままである。そして言葉のほうには、あきらかに、時代のスタイルが刻印されていた。このズレにちょっとした違和感を覚えたのだと思う。

宮城が二人一役手法のさいによくやるように、セリフはある程度までぎこちなく分節されてはいたが(とくに冒頭のヒカルの長ゼリフ)、劇を通して徹底されていたわけではない。いや、全体的に、非−自然になるようにセリフが振り付けられていたように思うけれど、その度合いは、二人一役手法に比べればはるかに非徹底的であり、言葉の音声化についての演出プランがいまひとつよくわからなかった。

 

演出の問題:正面を向き続けること

唐のテクストはある意味ではリアリズム的だ。なるほど、生霊や憑依はリアリスティックではないかもしれないが、それは源氏物語由来だからそうなのであって、それ以外の部分は、たとえばチェーホフをリアリスティックと言うのと同じような意味ではリアリスティックである。

しかし、宮城の演出は徹頭徹尾、非自然主義的だった。しかも、非自然主義だと感じさせることなしに、である。驚くべきことに、俳優たちはつねに正面を向いてセリフを語っていたのだが、それがほとんど違和感をかきたてなかった。対話であろうと、ふたりが向き合うことはない。俳優たちは、言葉を語るさい、体の側面や背面を観客に見せることがなかった。

この演出法はいくつかのめざましい効果を生み出していた。ひとつは、俳優たちを自由に配置することを可能にしていた。舞台は砂で描かれた格子状の模様を取り囲む壁があり、その上に、上流から流れ落ちる水を表すかのように木材がランダムに置かれていたのだが、この縦にも横にも広がりのある、静的な動きのある舞台を、自由に背景として使うことができていた。たとえばふたりの対話なら、ひとりが床のうえ、もうひとりが木材のうえというような垂直的な配置が可能になるし、ふたりのあいだを3メートルほど空けるという配置も可能になる。

興味深いのは、たとえばそのようなふたりの対話の場合、舞台上では物理的には離れているにもかかわらず、あたかもすぐそばにいるかのようなふるまいをしていたことだ。だから、妊娠中のアオイを気遣うように背中をさすろうとするヒカルだが、同じ平面上にはいながら遠く離れているがゆえにーーそれはまるでふたりの心理的隔たりを表しているかのようでもあるーーヒカルは虚空に手を伸ばし、何もないところを上下させるのである。

物理的な非接触的を志向する、心理的距離を具現化したようなこの空間配置は、奇妙にも、活人画的な表象を作り出す。奇妙にも、というのは、ここに奥行きがないわけではないし、動きがないわけでもないからだ。にもかかわらず、舞台は全体的にきわめてタブロー的であったし、その意味では、劇冒頭の影絵のダンスは、この演出の絵画的側面の告示であったのかと、いまになって気づいた。

しかし、この静止画的静けさと、アングラ的ーーと言っていいのだろうか?ーーな破天荒さのあるテクストとが、そしてそのようなテクストが本質的なところで要求しているように思われるノイジーな猥雑さと、どうもうまくマッチしていないようにも感じられた。

 

演出の問題:重さ、恐ろしさ、崇高さ

ほかの演出を見たことがないからまったくわからないけれど、宮城のほかの演出と比べて考えた場合、やはりこの演出には最近の宮城の傾向が色濃く反映されていたようにも思う。崇高さな美への志向であり、それはテクストを重く、シリアスにするものである。

唐のテクストを通読したことはないので、この劇がはたして軽いものなのか重いものなのか、ベケット的なコメディなのかアルトー的な不条理なのかはわからないとはいえ、宮城の演出では、もしかするとオリジナルではむしろホラー的なものが、ほとんど悲劇的なところにまで引き上げられすぎていたのではないかという疑いはある。

とくにヒカルとアオイの最後(だったと記憶しているが、かなりうろ覚えではある)対話だ。ヒカルはたしか木材のうえに立ち、アオイはそのはるか上空、舞台裏の木々のなかに置かれたゴンドラのようなところに立っている。劇が始まる前はまだ明るかった空が真っ暗になっている。アオイはますますロクジョウの声で語るようになる。木々が下から赤いランプで照らし出される。それは人格乗っ取りというホラーにありがちなジャンル的レパートリーが、悲劇的な出来事へと演出的に昇華された瞬間であった。

それはたしかに美しいものではあった。ヒカルとロクジョウの最後の対峙にしても同様である。緑色の光が、這いつくばるロクジョウと向かい合うヒカルを照らし出す。円舞のようなにらみ合いであり、それはもしかすると、能の舞のようなものだったのかもしれない。言葉は説明しない。動作と音楽が自ずと語るのみである。それはもしかすると小津映画的な瞬間だったのかもしれない。言葉は語ることをやめ、静謐な音楽が無言で何気ない仕草をする俳優たちに寄り添う。

クライマックスを、非言語的だがマルチメディア的ではあるスペクタクルにするのは、最近の宮城演出の常套手段(すくなくとも、『オセロー能』、『寿歌』、『顕れ』がそうだった)だと思うのだが、それがはたしてこの作品のノリやリズムとマッチしているのかというと、どうなのか。

宮城本人がチョイ役で出演していたけれど、彼自身が見事に演じていたイノセントな軽さこそ、この作品の本質の一部であるように思う。にもかかわらず、宮城演出では、そうした軽さでさえ、あまりに大真面目にやりすぎていたのではないか。

「演出ノート」のなかで、宮城は、「はっきりと効用に結びついておらず、しかし決して手を抜いてはいけない営み」として祭りを定義し、それを演劇にもそのまま当てはめている。だとすれば、彼は演劇=祭りの背後に、奉るべき神的存在を措定しているということだろうか。もちろん、ここでの神的存在は唐十郎では必ずしもないだろうし、宮城演出は唐を喜ばせる/満足させるようなことを目指してはいないだろう。神がいるとすれば、それは演劇という神である。しかし、演劇を神事としてしまえば、そこには、不真面目にやるという選択肢がほとんど原理的に抜け落ちてしまうだろう。

不真面目さを大真面目に表象することはできるし、不真面目さを全力で表象しようとすれば、不真面目さを不真面目に演じるというのはありえない。それは単なる手抜きでしかない。しかし、手抜きとはちがう、「ヌキ」や「軽さ」というものがあるのではないか。そして、冒涜的、瀆神的な乱痴気騒ぎも。

ニーチェが有名にしたあの二分法を借りるなら、宮城の演出はあまりにアポロ的であるということかもしれない。ディオニュソス的なものはあるし、もしかすると、アポロ的に構築していって最後でディオニュソス的に解放させているということなのかもしれない。しかだとすれば、宮城演出の最終的な落とし所は理(ことわり)ではない何かであり、それゆえ、物語構造的な「閉じなさ」が演出的には塞がれきらないことがあるのかもしれない。

別の言い方をするなら、宮城演劇の幕切れは、エーテル的な昇華を目指しているようにも感じられる。それは脱肉体化された精神的な美であり、意味ではなく、存在ーーあることーーそのものによる贖いである。しかしそれは、要するに、神々しさのために生々しさを犠牲に供していることでもある。

 

全然まとまらなかったが、違和感の正体の所在は自分のなかではだいぶはっきりした。