うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

市民教育をやりなおす:マーク・リラ、夏目大訳、リベラル再生宣言(早川書房、2018)

民主主義の主要な概念の一つである「市民」はフェイスブックのアカウントとは違う。市民は、個人の持つ属性とは無関係に、絶えず政治社会を構成する他のすべての市民と結びついている。そして、社会における権利を持ち、同時に義務を負っている……フェイスブックにおいては、自分の承認した人とだけ結びつくことになるし、その人との結びつきは、民主主義社会における他人との政治的な関係とは違ってくる。(95頁)

 

既存の政治装置を軽視してはならない

もし60年代フェミニズムのスローガン「個人的なことは政治的the personal is political」の裏返しである「政治的なことは個人的the political is personal」がまかりとおるようになれば、それどころか、「政治的なことは個人的なことにすぎないthe political is merely personal」という劣化版がかつての運動のための理念を駆逐するようなことなってしまえば、政治はもはや成り立たない。というのも、もし政治的なことが個人的なこと「にすぎない」としたら、政治は個人的な趣味嗜好の問題に解消されてしまうからだ。趣味嗜好について話すように、政治について話すことはできない。自分の趣味を他人に布教することはできるが、それは押し付けと紙一重であるし、そこにはなんの普遍的根拠も存在しないだろう。趣味嗜好の合わない他人と連帯することは可能かもしれないが、そこで説得はまったくの偶然的なものにすぎなくなるだろう。趣味の世界の行き着く先は相対主義であるが、政治とは、主義主張の食い違う個人間の説得を必然として受け入れることである。

しかし、個人が使えないからといって、アイデンティティ・ポリティクスに頼っても、政治は成り立たない。それでは、ある特殊的集団のポジショントークに還元されてしまうからだ。アイデンティティに依拠して、何らかの集団を背負って話すこと、それは、絶対に譲ることのできないなんらかの立場を拠り所にすることである。そこでは説得は不可能となるだろう。それどころか、ほんのわずかな部分的批判すら、アイデンティティにたいする全面的な人格攻撃と見なされ、袋叩きにあうだろう。妥協がありえないものとなるだろう。少しでも譲ってしまえば、アイデンティティの純粋性が汚され、アイデンティティの意味が失われる。しかし、政治とは、相容れないアイデンティティ同士の間の連携にほかならない。

個人を起点にしては政治にならない。しかしアイデンティティ・ポリティクスで集団を拠り所にすれば分断と敵対しか生まれない。政治は集団的な行為だが、そのうちに妥協を含みこむ漸近的な営為である。不誠実というわけではないが、便宜的なところがある。純粋ではないし、明快でもない。曖昧さがある。不合理もある。そうしたゴタゴタを全面的に拒否することは、道徳的には高潔かもしれないが、実務的には無力だ。

政治をやること、それは、フェイスブックの「いいね」のように好きなときに押したり取り消したりできるようなものではない。わたしたちは流動的な世界を生きてはいるが、政治をやるには、「いいね」で作り出されるような想像の共同体だけでは不十分である。 

たんなる趣味嗜好の個人でも、特定利害を代表する集団でもなく、だれにでも等しく当てはまる「市民」という根本的なカテゴリーから始めなければいけない。最も包括的な意味で「わたしたち」と言えるようでなければならない。そしてその「わたしたち」は、気の合う者も気の合わない者も、お気に入りの人間も気に食わない人間も、好きな人たちも嫌いな人たちも、すべてひっくるめたものでなければならない。政治は好き嫌いに左右されるべきものではない。

政治をやることは継続的な辛抱強さを必要とするし、それは、辛抱強いプレイヤーを必要とするだろう。そして、そうしたプレイヤーは持続的な教育によってのみ作り上げられるだろう。リベラルを作り直すこと、そのためには、教育によって市民というものを作り直していくことにほかならない。

市民と教育、持続的な努力によって市民を作り出すための教育を行うこと。そこから始めなければ、リベラルに未来はない。 

 

マーク・リラの『リベラル再生宣言』の主張の根底にある考えをざっくりとまとめればそんなところになるだろう。そのうえに築かれるリラの主張は、拍子抜けするほどに、馬鹿馬鹿しいほどに、月並みなものである。既存の政治回路を信頼しよう。選挙で候補を当選させ、議会で法律を通過させよう(110頁)。政治とは議会でやるものである。

それはもしかすると、政治を政治家に委ねよう、ということになるかもしれない。政治を自分探しだとか自己実現のための口実にしてはいけない。そういう契機が政治にあることは否定しないし、そういう側面が政治にあってもいい。しかし、政治の本当の役割はそれではない。

 

右左両方で肥大する個人

レーガン的な個人

リラの見取り図によれば、右派と左派の両方において「個人」というカテゴリーが台頭してきた結果、リベラルという立場が成立しえなくなってきている、ということになるだろう。ここで興味深いのは、リラが、共和党民主党の両方のスペクトラムにおいて、レーガンをさらに過激化したようなネオリベラリズムと、ニューレフトに端を発する文化左翼の両極において、個人の肥大化が進んでいると見ている点である。

レーガン的な消費社会的個人主義は、伝統的な保守層が思い描いてきたような、農村的保守性ではない。郊外に生きる互いに孤立した消費者たちは、ショッピングモールにおいて邂逅することはあるかもしれないが、もはや積極的な共同体志向は持ち合わせていない。道徳的基盤がないから、義務の観念のようなものもない。あるのは、ただひたすらに、経済的なもの一元論である。勝者総取りの世界。

・良い生活とは、自立した個人の生活のことである――個人はおそらく家族や教会、小規模な共同体に属しているだろう。しかし、どの人も、共通の目標を持った、互いへの義務を負った共和国の市民というわけではない。

・優先すべきは富を築くことであって、その再分配ではない。したがって、個人やその家族は、独立を保ち、自らの経済的繁栄に集中できる。

・市場は自由になるほど成長し、その結果、すべての人を富ませる。

・政府は、レーガンの言葉によれば「その存在自体が問題」である。専制的な政府でなくても、非効率な政府でなくても、不公正な政府でなくても、ともかく政府でありさえすれば、それだけで問題である。(36-37頁)

レーガン個人主義、それは自助努力によってすべてを成し遂げたと信じる自由な個人への信仰であり、それが行き着く先は、ノージック的な最小国家である。なるほど、右翼的な思考を根気よくシンクタンクやアカデミズムへと浸透させていったのはレーガンの遺産である。 

ともかく[共和党の中核を担う人材を育てるための教育が必要であることを理解していた者たち]は、運動に永続的な変化を起こすためには、絶えず新しい人材を育成しなければならず、また新しい人材はとにかく必要な荷物だけ持たせて外に送り出し、自らの足で政治に関わる長い進軍をさせなくてはならない、と直感的に理解していたらしい。進軍の目的は、既存の政府を取り除くことだ。まずは既存の政府を自分たちのものにし自由に制御できるようにする。いわば、反政治的な目的のために、政治的な手段を使うということだ。(53-54頁)

大学生向けのサマーキャンプだと大学教授向けの読書グループだとかを立ち上げ、大学院生に資金援助をして共和党的な考えの教授のもとで学ばせ、法曹界や教育界にシンパを増やし、法律や政治の教えられ方に影響を与えていくという、ある意味ではトロツキストでさえある戦略的教育介入からすると、FOX Newsはそのさらなる過激化と言えなくもないが、その陶酔的なまでに騒々しい自画自賛的トーンは、かつての地下活動的な迂遠的プロパガンダからは大きくかけ離れてきている。

レーガンは政治の意義を縮小し、経済的なものを極大化することによってリラが「反‐政治」と呼ぶ傾向を作り出したが、その過激な継承者は、レーガンその人ではなく、レーガン主義とでも言うべきものである。それは共和党保守本流が引き継いだものではなかった。それをひょいと受け取ったのは、ドナルド・トランプである。

 

ニューレフト的個人

リラの描写は少々戯画的であるし、あまりに厳しすぎるようにも感じるが、彼の語る批判連鎖の例はあまりに示唆的である。

たとえば、人種による分裂は急速進んでいる。黒人たちは、指導者の多くが白人であることに対し、不満を訴えるようになった。指導者に白人が多いことは事実だ。フェミニストたちは、指導者のほとんどが男性であることに対し、不満を訴えた。指導者のほとんどが男性であることもまた事実だ。間もなく、黒人の女性は、急進派の黒人男性たちによる性差別と、白人のフェミニストたちによる暗黙の人種差別に対する不満を訴え始めた――また彼女たち自身、ヘテロセクシュアルの家族だけが自然のものと考えているとして、レズビアンたちから批判されるようになった。(83頁)

ある問題を、特定のアイデンティティを持つ人だけのものにしてしまうと、敵対者に必ず同じことをされる。特定の人種のためだけに闘う者は、他の人種のためだけに闘う者に攻撃されることを覚悟しなくてはいけないし、攻撃に負けることもあり得る。(138頁)

これらの批判はいちいちもっともだし、正当なものではある。しかし、それは、そもそもの問題をぼやかす結果にもつながってしまう。社会正義を押し出しすぎると、自分たちを正しく表象することに固執しすぎると、自分たちが自分たちの思うように認知されることに固執しすぎると、具体的なイシューが影に隠れてしまう。「アイデンティティに対する意識が強まるにつれ、問題別の政治運動への参加意欲は薄れることになった。そして、自分にとって最も意味のある政治運動とは、当然、自分のことに関する運動だろう、という考えを持つ人が増えていった」(90頁)。

ニューレフト的な個人主義が行き着いたのは「疑似政治」である。そこで、政治は、たえざる運動であるとか、おわることない議論に移し替えられる。たとえば大学のキャンパスが、疑似政治のための絶好のフィールドとなるだろう。そこでは、「わたしたち」という大きな主語は普遍主義や本質主義の臭いがするものであり、忌避されるものとなっていくだろう。大きなカテゴリーは、ますます細分化されていくだろう。そうした動きが、フレンチセオリーによって知的に裏づけられていくだろう。「過激な個人主義に知的な根拠が与えられる」(94頁)。

政治はもはや、議会や法律ではなく、裁判所や街頭において営まれるだろう。プロテストこそが、デモこそが、政治なのだ。なるほど、それは、「反‐政治」とは違い、政治的なものを否定することはない。議論はあるし、理念はある。集団がないわけではないが、それはもはや、フェイスック的なものでしかない。

そこには永続的な政治装置がないし、異質な他者の身になって考えるような媒介装置がない。フェイスブックの集団性は、ルーズベルト体制にあったような強固な集団的アイデンティティではないのだ。なるほど、それはたしかに、美しい嘘のようなもの、輝かしい空約束のようなものだったかもしれないにせよ、連帯の戦略的必要性を教えてくれるものでもあったのだが、それが失われたいまや、キャンパスにおけるアイデンティティ派のリベラルな個人のあいだでは理性的な政治的議論が成立しなくなってきている。

たとえば教室での議論なら、過去には誰かがまず「私はAだと思う」と言い、その後、互いに自分の意見を言い合う、という流れになったはずである。今はそうではない。Xの立場で意見を言った人は、たとえば誰かがBという意見を言っただけで、それを自分への攻撃と受け取り、怒り出す。アイデンティティがすべてを決めていると信じているのだとしたら、意見に反論された怒るのは当然である。アイデンティティを否定されたのと同じだからだ。これでは偏りのない公平な対話の余地はどこにもないことになる……他人に意見を変えさせようとするのはタブーにすらなっている。誰もが特権的な立場で話をし、誰も人の話を聞かないキャンパスにいると、宗教に支配された古代世界にいるような気分にもなる。(97-98頁)

しかしこうした態度は、「白人の男性には白人の男性の認識があり、それは黒人の女生徒は違っている」という当たり前の前提を確認するだけだろうし、「それに何を言えばいいというのか」ということにしかならない。理性的な熟議が、理論武装されたアイデンティティ・ポリティクスによって、完全に封じこめられてしまう。

新左翼が激しく現実的な政治闘争から逃れて大学のキャンパスへと戻り、若者たちを自分たちの後継者にできればと期待したころには、このような事態になることはまったく想定していなかった。彼らが夢見たのは、学生たちが大きな政治課題について無制限で激しく議論し合うようになることである。部屋に集まった学生たちがお互いを疑わしそうな目で見るだけで、まともな議論をすることもない、こんな状況は望んでいなかった。学生たちが活発に意見を述べて互いを刺激し合い、皆が自分の意見を通すために知恵を絞る、そんな大学の姿を想像していた。ところが、現実の学生たちは、ほとんど会話すらしなくなってしまったのだ。世界に政治的に関与し、そのために幅広い情報を積極的に集めるようになるだろうと期待したのに、実際には誰もが自分の殻に閉じ込もって外に目を向けなくなってしまった。(99頁)

 

アイデンティティ・ポリティクスの後で

そうなってくると、噴出する怒りや憤りは場当たり的に発散されるだけで、具体的な帰結には結びつかず、体系的な変革にもつながらないようになるだろう。感情による政治が現在を支配しているとしても、別の感情による政治では現状は変えられない。感情に感情的に反応するだけでは不充分である。

意識変革には意味があるが、意識変革だけではすべては変わらない。結局のところ、インフラ的なものを、マテリアルなところを、変えていかなければだめであるし、そのためには、政治を担う人材の教育が必要である、というのが、リラの主張するところだろう。

皮肉なのは、それは、レーガンたちが成し遂げたことにほかならないというところだろう。リベラルは、とうとう、ネオリベラルたちの戦略から学ばなければならない。これまでリベラルたちは、大学内の知的エリートたちから学んできたわけだが、それはもしかすると、「一段高いところから無知な人たちに向かって説教する」(117頁)という態度を助長してきたきらいがあるし、それは、コットン・マザー以来の「説教をするのは好きだが、他人に説教されるのは大嫌い」(121頁)というアメリカ国民気質の悪い側面を増幅してきたきらいがある。

リベラルはエリートづらを捨てなければならない。アイデンティティ・ポリティクスから抜け出し、選挙で戦い、選挙で勝つための戦略を練り上げていかなければならない。妥協点を探り、連帯相手を増やしていかなければならない。

そのための拠り所は「市民」であると言う。なぜなら、市民はアイデンティティよりも根源的なものであるがゆえに、人種を越えて適応するものだからである、というのが理由のひとつであり、もうひとつの理由は、「市民」が権利と義務の両面性を備えているから、個人の権利だけではなく他の個人にたいする義務をも含みこんでいるから、とうことであるらしい(131頁)。

 

リラの提言がはたして今日のデジタル・テクノロジーの文脈で果たして実践可能なのかは、疑問がある。SNS的なコミュニケーションは、市民に必要とされるような理性的熟議と真っ向から対立する感情的反射を促進するが、わたしたちは複線的なコミュニケーション回路を発展させていけるだろうか。それは間違いなく、いちど作り上げればメンテナンスしなくていいというたぐいのものではない。「市民は生まれるものではなく、作られるものである」(139頁)のだとすれば、たしかに、新たに作っていくことは依然として可能であるし、これまで想像もしなかった新しい市民のかたちを、これまで想像もできなかった新しいやり方で作っていくこともできるだろう。

依然として問題は残る。「市民意識を維持するのは非常に難しい」(140頁)からだ。もしかりにSNSに逆らってリベラルな教育を作りなおしたとしても、それを継続的に維持していけるかどうかは別問題である。だが、「民主主義者のいない民主主義社会」(143頁)に陥らないためには、とにかく続けていくしかないのだ。そのためにはアイデンティティ教育はむしろ逆効果であり、50年代から60年代のラディカルたちを育てた古典的教育のほうが現実的ではないかという提案は非常に興味深い(とてつもなく保守的で時代錯誤的に聞こえるものではあるが)(147-148頁)。

 

 

翻訳は数か所で微妙におかしい気がしたが、通読を妨げるようなところはない。解説は私的なエッセイとしては面白いかもしれないが、本書の内容解説としては不充分であると言わざるをえないだろう。