うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。瞬間脳内対話。

特任講師観察記断章。ジェンダー二進法にからめとられないように話すこと。「彼」というところを「彼や彼女」とするだけでも微妙に文字数が増えるし、「○○な人たち」というのを機械的に「彼ら」とは受けずに「○○な人たち」と繰り返すのは冗長だ。限られた授業時間のなかで、カバーすべきノルマに追い立てられていると、どうしてもそのあたりをスキップしたくなるけれど、そこで踏みとどまる意志の力と心理的な余裕が欲しい。

豊かな想像力も必要だ。TOEICの授業でreimbursement――辞書だと「返済」とか「弁償」となっているが、TOEICでは「ポケットマネーで払ったものを後で経費として請求する(たとえば出張費)」と理解したほうがわかりやすい――の説明をしながら、「家に帰ったら父親に尋ねてみてください」と言おうとしたその瞬間、「いやいや、なぜ父親が働いていると決めつけるのか」と思い直し、「両親に」と言い出そうとするが、「まてまて、父母両方いるという想定もちがうぞ、なぜシングルファーザー、シングルファーザーのような状況を除外する、まったくべつの生活形態だってあるじゃないか」と再び思い直すぐらいの瞬間脳内対話ができるようでないといけない。思い浮かべられるかぎりさまざまな家族のかたちを頭のなかで描き出してみる。いくつものイメージがあふれだし、おりかさなり、まざりあう。そんなふうに現実的でもあればユートピア的でもある想像力を奔放に解放させる契機は、TOEICの授業にも潜在している。しかし、それをどうにか言葉に捉えようとすると、「親でも親戚でも兄弟姉妹でもいいので、もし一般企業に勤めている人が周りにいたら、会社ではどういうプロセスで出張の経費の請求をするのか、いちど聞いてみてください」という、焦点の定まらない凡庸な説明になってしまう。

インクルーシブであろうとすることは、量の問題と向き合うことでもあるけれど、どれだけ具体的なレファレンスを増やしたところで、やはり零れ落ちるものはある。すべての可能性に言及することは不可能だ。すでにあるものだけではなく、まだないものも、可能性の世界の住人だからだ。だから、量的ではないかたちで言葉を使う必要があるような気がする。言葉を質的に変容させる必要があるような気がする。クリシェ的な言い回しだとか、あたりさわりのない表現ではない、強度のある私的な詩的言語を探り当てないと駄目な気がする。それをTOEICの授業で実験実践しようというのは、倒錯的な行為なのだろうけれど。