うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。教養的なものと訓練的なものを無媒介で接続するという節操のない授業。

特任講師観察記断章。教養的なものと訓練的なものを無媒介で接続するという節操のない授業を展開している。

発音についてのテクニカルなところに踏み込みすぎず、かといって、単なる口移しではないかたちで、スクリプトの「読譜法」を教授し、朗読させ、それを細かく直していく。今年は、音節にまで踏み込み、強く読むのが「どこ」なのかをミクロなレベルにまで掘り下げてみたが、音節は辞書で調べられるものだから、学生に辞書を使わせるトレーニングにもなって、一石二鳥という感じもしている。

やればやるほど、日本語のアクセントパターンは英語と相性が悪いのだということに気づかされるし、学生がこれまでいかに適当に――というと厳しすぎるかもしれないが、明確に意識することなく、とは言っていいだろう――英語を音読していたのかが明らかになり、中高の英語教育はどうなっているのかと、疑問しか湧いてこない。

A man is leaning against a counterという文章を、まず、A/ man/ is/ lean/ing/ a/gainst/ a/ coun/terと音節で分断させ、どこにアクセントがつくのかを宿題として課す。調べてきたことをグループワークで確認させたのち、man、lean、counに強アクセント、gainstに中アクセントであることをクラス全体で共有し、数人の学生に朗読させる。

日本語話者の宿命なのか、A manのところでは、冒頭のAにどうしてもアクセントがついてしまう。A man/ is leaning/ against a counterと読んでほしいのに、A man is/ leaning against/ a counterとなってしまう。冒頭にアクセントがないこと、「てにをは」が冒頭にくることが、どうしても生理に反するのだろう。しかし、この弱く入る「アウフタクト」のノリが直感レベルにまで落ちていかないと、英語のリズムにならないのだ。

というわけで、ネチネチと、「それだとAにアクセントがついてしまっている」「いやいや、だから、いまのだと、A man isで切れているから」とコメントしながら、出来るまで何度もやらせる。わりとひどいことをしていると思うのだが、座学的なものに退屈した顔をする学生ほど、へこたれることもむくれることもなく、驚くほど素直にやり直しを受け入れる。個人的にこの自発的な従順さは驚きの種ではあるけれど、学生にしても、なにかしらの手ごたえがあるのかもしれない。

別のクラスでは、読みやすいように分かち書きしたスクリプトを与え、それを朗読する課題を出してみたが、こちらも、思った以上の効果があった。

Most importantly, 
historians 
agree 
that 
  writing systems 
         were invented 
                to store 
                and        information.
                transmit 

のように書き下したほうが、読むことだけに集中できるようだ。まったくの思い付きでやらせたことだが、実はこれは相当よいやり方ではないかと思い始めている。学生に聞いてみたところ、このように書き改めたほうが読みやすいようだった。

このやり方を試せているのは、ハンドアウトを電子ファイルで配布できているからでもある。というのも、上記のような分かち書きを紙でやると、大量の資料を配布しなければならず、印刷の手間が大きくなりすぎるのだけれど、電子ファイルだと、余白を贅沢に使うことが出来るので、物理的な制限から躊躇していたことに気軽に挑戦できている。

そんなふうに、相当マニアックなレベルで英語の音に切り込む一方で、テクストにWashington D.C.への言及があると、ワシントン州と首都ワシントンの区別を説明しつつ、自分がワシントンD.C.に行ったときの話を引き合いに出しながら、ナショナル・モールについて説明し、アメリカの首都が政治的中心であると同時に文化的な磁場でもあること、日本との比較で言えば、霞が関と上野をドッキングさせたようなところであることを口早に物語ってみる。

まったく脱線的なものにすぎない雑談的教養よもやま話のさい、わりと熱心にメモをとっている学生が散見されるのだけれど、いったい何をノートに書きとっているのかつねづね不思議に思う。

自分が担当しているのはまちがいなく実用英語の授業であるが、はたして学生がそこから何を学び取っているかは、まったくよくわからない。しかし、偶然のめぐりあわせに加えて、再履修の関係で、自分の授業をかれこれ3年ほどにわたって取るはめになっている学生が、今週の課題であった英語の音読をかなり流暢に、まったく自然な呼吸で出来るようになっているのを耳にして、かなり報われた気はした。自分のやっていることはあながち無駄ではないらしい。