特任講師観察記断章。非対称的な英語能力の必要性。必修のTOEIC科目の中間試験の附録として音読の課題を出し、それを採点していたのだけれど、いまの発音教育はどうなっているのだろう。なんとなくネイティヴ「風」の音声が目指されているような雰囲気は感じるが、「どの」ネイティヴ的な発音なのかはまったく曖昧であるように聞こえるし、興味深いことに、ブリティッシュ・アクセントだとかエボニクスで吹き込んできた学生は皆無だった。ノンネイティヴがグローバルなコンテクストでストレスフリーでコミュニケーションできるアクセントということを考えるなら、アメリカだとかイギリスだとかのネイティヴの音を上っ面だけ真似るより、ノンネイティヴによる丁寧な発音をコピーしたほうがはるかに効率的だろうし、真剣にネイティヴ・レベルの発音や発声を目指すなら、会得すべきモデルを明確にしなければダメだろう。幼少期から体感的に身につけさせていくというのなら話は別かもしれないが、直感的には発音を身につけられない年齢以降の英語教育については、目指すべきターゲットはもっと狭くていいように思う。というよりも、話したり書いたりは狭く深く、読んだり聞いたりのほうは多様性に開かれたかたちにするというような非対称性を、積極的に肯定していくべきではないかという気がする。
小さなことをすべてきちんとこなせる。課題に細かな条件をつけているこちらにも多少の非があることは認めるが、それでも、クラスの4分の1ぐらいがインストラクションを踏みにじってくるのを目の当たりにさせられると、これはどういうことなのかと考える種になる。他の科目の課題が多すぎて、細部を確認している暇がないというのはそうかもしれない。とりあえず出すだけで精一杯というのが真実かもしれない。しかし、それほど複雑でもなければさして困難なわけでもない指示――以前提出したファイルに新たなドラフトを上書き保存する、パラグラフごとにヘッドラインをつけトピックとトピックセンテンスを明示する――を無視されると、困惑させられる。そしてそれにこちらが苦言を呈すると、ほとんどノータイムで「何が間違っているのか教えてください」と「答え」だけを直で求めてくるという安易な態度にも辟易させられる。しかしそれは、つまるところ、自分が持ち合わせている官僚的な事務処理能力の高さが実はきわめて特殊な代物であるということを理解していなからなのかもしれない。
煩雑さを乗り越え可能にする基礎。ルールの枠内でプレイできる能力、それは従順さとも言えるし、個の交換可能性を基盤とした近代社会で繁栄するためのサバイバル技術とも言えるものだろうけれど、そのスキルの多寡はこちらが思っていた以上にバラバラであることが、今回の遠隔授業によって、はっきりと浮上してきた。とはいうものの、これは大学教育の範疇なのだろうかとも思う。たしかに論文の書き方であるとか、ある特定分野における書式を教えることは、その範疇に入るだろうけれど、基本的に覚えるまでがひじょうに面倒くさいマニュアル的知識やスキルを身につけるための基盤それ自体のほうはどうなのか。それはおそらく「家庭の教育」の産物だろうし、幼少期の学習習慣であるとか習い事、周辺の人々の振る舞いによって少しずつ築き上げられてきたものだろう。それをいまここで作り直している時間はあるか。そこをショートカットすることは可能なのか。