うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。審美眼(というか審美耳)を育てる。

特任講師観察記断章。ノンネイティヴが英語でうまくプレゼンテーションをやるためには、「いわゆる英語らしさ」を目指すのはナンセンスだ、そうではなく、ゆっくり、丁寧に、ポイントになるところを前面に出すようにやらなければならない、そのためにこそ、単語のアクセントやセンテンスの抑揚が重要なのだ。そういうことを再三再四繰り返してきたのだけれど、そのメッセージはきっちり伝わっていたようである。

とくに面白いと思ったのは、そのような評価基準をひとたび内面化すると、どのようなプレゼンテーションが優れたものであるかを、学生たちが直感的に瞬間的に認識できるようになったらしい点。

審美眼(というか、審美耳か)が育ったらしい。

ほとんどすべての学生が、アクセントのメリハリがあり、抑揚の凹凸が深いもののほうが、聞きやすくわかりやすいことを、実感できていた。そのような感性を根付かせることができたのは、個人的に、大成功だったと思う。「わたしの好きのものが良いもの」という主観的な基準だけではなく、「良いものは(誰にとっても、少なくとも、「分かる」人にとっては個人的好みとは関係なく)良いのだ」という、当たり前のことではあるけれど、昨今ではそれほどすんなりとは受け入れてもらえないのかもしれない客観的な基準には妥当性があるということにも、納得してもらえたようである。

他人の発表を注意深く聞くことで、他人から学ぶ態度を養うことができたようだ。「よい聴衆でなければならない、よい聞き手にならなければならない」と繰り返し説いてきたけれど、共に学び共に成長するという「相互性」や「共同体意識」、「Win-Win関係」を刷り込めたような気がしている。

英語教育の裏口から民主主義的意識を招き入れることを裏プログラムとして秘かに掲げている身からすると、これもまた、大成功だったはずである。

リハーサルを入念に行ったのも、学生にとってはよかったらしい。ペアでリハーサル、グループでリハーサル、クラス全体でリハーサル、というかたちで、くどいほどにリハをやったおかげで、「発表は苦手」という層になにかしらの自信を与えることができたようだ。これは、アマチュア奏者としての実体験に基づくやり方だった。

そうした諸々の結果、学生たちに、自意識というか、メタ意識(自分がいまやっていることをリアルタイムで自分にフィードバックして、なぜいまやっているようにやっているのかと考えさせる)を芽生えさせることができたらしい。もちろん、メタ意識があることが本当によいことなのかという反論はありえるけれども、個人的には、あるにこしたことはないと思う。あるかないかの二択なら、あったほうがいいいに決まっている、と個人的には思う。

機械翻訳は、日本語と英語の根源的な違いに気づかせる比較ツールとして使える部分がある気はする。すべての学生に有効というわけではないけれど、学生のレポートをざっと読んだ感じでは、過半数以上には有効ではないかという感触はある。

それにしても、語る言葉を持っている人と持っていない人の違いは何なのだろう。これはもう本当に一目瞭然。読めばすぐにわかる。これまでに筆記に費やした時間の差なのか。

ああ、それにしても、たくさんのことを勝手に贈与する授業をやってきたものだ。それをどこまで学生たちがありがたがってくれているのかは、正直、よくわからない(振り返りレポートにはリップサービスもあると思うから)。

でも、「何度もドラフトの修正ありがとうございました。後期の初めは正直あまり気が乗りませんでしたが、だんだんとやっていくうちに楽しくなってきて最後のプレゼンテーションをするときには悔いの残らないようにできました。本当にありがとうございました」という率直な感想を読むと、やはり、とても嬉しく思う。

そして、「先生が最初にする雑談?のようなお話が面白かった」というコメントも、また、どうしようもなく嬉しいのであった。