うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

線の太い武骨な丁寧さ:マンフレッド・ホーネックの狭い深さ

最近ニューヨーカーが届くとまずアレックス・ロスの音楽評論があるかをチェックして、そこから読むことにしているのだけれど、それは彼の審美眼(審美耳?)の正しさにますます信頼を置くようになってきたからでもある。いや、もしかすると、客観的な正しさというよりは、自分の好みと近いという主観的な理由にすぎないのかもしれない。

どちらにせよ、ロスが薦めるものはどれも面白く感じられる。だから彼がマンフレッド・ホーネックとピッツバーグ交響楽団のブルックナーやベートーヴェンをべた褒めしているのを読んで、疑うより先にYouTubeを検索して聞いてみた。たしかにすごい演奏だった。

 

 

ここまで響きが充実していて、表情が濃くて、真っ当に高揚していく演奏は、今や逆に珍しい。絶滅危惧種と言ってもいい。細部をマニアックに強調するわけでもなければ、全体のバランスをデフォルメするわけでもない。テンポの動かし方にしても、多少速かったり多少遅かったりする部分はあるが、特異なまでの揺れ幅はない。

そこまで表面的には穏健な解釈でありながら、異常なほどに中身の詰まった音楽になっているのは、リハーサルが徹底しているということなのだろう。ロスが記事のなかで触れていたが、ホーネックは、オーケストラのメンバー全員に明確で印象的なイメージを共有させる術に長けているらしい。パート単体だと伴奏的なパッセージにしか思えないような部分まで、確信を持って演奏されているように聞こえるのは、たとえオーケストラの作り出す巨大な音響宇宙のなかの小さな小さな一粒にすぎないとしても、音のひとつひとつが絶対的に必要不可欠なものであることを、すべてがそれなしには宇宙が崩壊してしまうほどの重要性を秘めたかけがえのない存在であることを、頭だけではなく、直感や心情レベルでも奏者のひとりひとりにわかってもらえるようなリハーサルをやることが、この指揮者にはできるからなのだろう。

なるほど、たしかに旋律や音型に序列はあるし、それはパート内やパート間についても当てはまる。1番と4番のホルンであれば、1番のほうが重要性は高いし、旋律を奏でるトランペットとそれを下支えするトロンボーンであれば、トランペットのほうが重要性は高いかもしれないが、だからといって、4番ホルンやトロンボーンが不必要だということを意味しない。すべての音が必要であり、それらが然るべき場所に位置づけられているばかりか、それぞれの音が自発的に然るべきところに居場所を見つけているような印象すら受ける。

だからなのか、他の指揮者の演奏より、内声部の音に張りや締まりがある。パートをまたいだ動機の引き渡しや、複数の旋律や動機の重なり合いが、恐ろしいほど正確に音になっている。低い音域に置かれていたり、華やかな旋律とかぶっていたりと、普通なら埋もれてしまうような音型まで、くっきり聞こえてくる。それはリズムが正確なせいでもあるとは思うけれど、それ以上に、フレーズの入りの呼吸が絶妙だからだろう。メトロノーム的な意味では必ずしもぴったり揃っているわけではないのかもしれないが、音楽的にはピタリとはまっている。

洗練とは趣の異なる音ではある。太く力強い隈取りの線ですみずみまで丁寧に描き上げたかのような音画であり、すこし武骨な印象がある。生の素材感が残っている。ごまかしなしに真正面から激しくぶつかり合う力士たちが見せる荒々しい肉体美のように、音がごつごつと犇めき合う。それはチェリビダッケのようにすべての音を互いに溶け合せ、倍音成分を共鳴させるような、天井の高い教会のなかで自然に響き渡る深いエコーをそこまで残響の深くないコンサートホールで再現したような天上的な空気感のある響きとは、まったく種類の違うものだ。音の実在感を強く感じさせる響きだ。

しかし、ホーネックのラディカルな穏健さは、一音一音を徹底的に突き詰め、それらの関係を執拗なまでに明確化しておきながら、内声部のほうを旋律部よりも前面に押し出すというデフォルメ化の誘惑――それはたとえばラトルやアーノンクールに聞かれるものであり、悪趣味や衒学趣味と紙一重のものである――をあっさりと退けていたり、レントゲンのような透過性や音の厚みを犠牲にせんばかりの透明性という理想――それはたとえば60年代から70年代のブーレーズの録音に顕著に表れている――をまったく気にかけていなかったりするところにあると思う。

良くも悪くもオーソドックスであることの外には出ようとはしない。効果のための効果を目指すようなハッタリがないとも言えるし、音楽が伝統的に担ってきたのとは別の新たな使命を音楽に負わせてみようというような進取の精神に欠けているともいえる。だから、内側から激しく燃え上がって高く高く舞い上がっていく音楽であるにもかかわらず、地上的なものを突き詰めることによって天上的なものに昇り詰めていくにもかかわらず、どこか予定調和的なものを感じてしまう。

それはそれでいいのだとは思う。しかし、ホーネックの音源をいくつか続けて聞いていると、この線の太い武骨な丁寧さが、すこし大味で鈍重なようにも聞こえてきた。悪意を込めて言うなら、ホーネックの音楽づくりは一本調子なのかもしれない。恐ろしいまでに手入れの行き届いた音楽作りではあるけれども、その色のパレットは限定的なのかもしれない。ロスが指摘していることだが、この路線では、うまくフィットする作品と、あまりうまくフィットしない作品の差が、如実に現れてしまうだろう。

ひとつひとつの音を絶対的に大切にしようという多様性を抱擁する態度が、最終的に、あまり多様ではない音楽に行き着いてしまうというのは、なんとも皮肉な感じがするところではある。