うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

ワーグナー『トリスタンとイゾルデ』「愛の死」の分析7:1936年フラグスタート

1936年のコヴェントガーデンでの伝説的な公演記録で歌うキルステン・フラグスタートの声はいまだに若い。1895年生まれだから、まだ40歳前半で、キャリア的には最盛期にあると言っていいだろうか。フリッツ・ライナーの折り目正しい楷書体の指揮と相まって、きわめて古典的な演奏になっている。

しかし、ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウによる生真面目すぎるディクションを知っている身からすると、フラグスタートの発音はやや甘いようにも感じるし、語末の r の発声がイタリア的というか、巻き舌的。たとえば、immer lichter の箇所はとくにそうであるし、 leuchtet の語末の子音をはっきりと響かせようという意識は薄い。

とはいえ、あらためて丁寧に聞いてみると、フラグスタートには歌い崩しがほとんどないことにも気づかされる。それはもちろん、ライナーが楷書的に追い立てているせいもあるとは思うけれど、そのような指揮者の要求に応えつつ、自らの表現を犠牲にしているわけではない。後半に向かってアッチェレランドがかかるけれど、そこでも、音程やリズムの正確さが揺るぐことはほとんどないし、技術的な難点をクリアするために全神経が費やされているわけではない。

シンコペーション的に、頭拍ではなく裏拍で入ってくるような箇所での音の入りがきわめて巧みだ。器楽的な音楽の流れにスッと飛び乗るようにして、オーケストラの加速する盛り上がりにブレーキをかけることなく、さりとて、オーケストラの加速をいたずらに加速させるわけでもなく、まさにここというジャストな瞬間に合流してくる。その合わせの正確さが素晴らしい。フリーハンド的な感じなのに(ピタりと合わせようと慎重になりすぎていないのに)、気持ちよくシンクロしている。

最後の In des Welt-Atem の We の音をクライマックスにするかのように、声もオーケストラも音をぶつけてくる。そしてそこが見事にハマっている。

その一方で、フラグスタートはどこまで言葉を音化しようとしているのかという疑問もある。ノルウェー人である彼女にとって、そして、イゾルデを限りないほど歌った彼女が、歌詞の意味内容を理解していないということはありえないようにも思うのだけれど、この録音を聞くかぎり、フラグスタートは言葉に特段の注意を払っていなかったのではないかという疑いを抱かざるをえない。彼女は旋律を歌ってはいるけれど、意味を歌っているという感じはあまりしない。

器楽的に聞くなら、おそらくこれはもっともすぐれた演奏のひとつになるとは思う。声には過剰なビブラートがなく、清潔な節回し。フラグスタートの声には適度な潤いと憂いがある。オーケストラは素直に、直線的に盛り上がる。時代的な制約として、音質的な乏しさはあるが、30年代後半としては破格の高音質である(しかもライブ録音なのだから)。しかし、ここには、陶酔的なニュアンスは乏しい。いわば、あまりにも明るすぎる。夜というよりも昼に近く、死というよりも生に近い。

それはそれで面白いが、だからこそ、これをレファレンス録音と捉えるわけにはいかない。

youtu.be

 

Mild und leise        なんと穏やかに、静かに、
wie er lächelt,         彼は笑っていることか。
wie das Auge         なんと優し気にあの人は
hold er öffnet ---         目を開いていることか——
seht ihr's Freunde?         見えるでしょう、あなたたちにも? 
Seht ihr's nicht?        見えないのですか?
Immer lichter          ますます明るく
wie er leuchtet,                            なんと光り輝いて、
stern-umstrahlet                          星の光に包まれて
hoch sich hebt?                            高く昇っていくのでしょう?
Seht ihr's nicht?                            あなたたちには見えないのですか?
Wie das Herz ihm        あの人の心は
mutig schwillt,           なんと勇ましくふくらみ、
voll und hehr                               充ち満ちて気高く
im Busen ihm quillt?       胸からあふれだしているでしょう?       
Wie den Lippen,                           その唇からは
wonnig mild,                                愛らしく穏やかに、
süsser Atem            甘やかな息がなんと
sanft entweht ---          柔らかくもれていることか——
Freunde! Seht!                             そうでしょう、ほら! 見てごらんなさい!
Fühlt und seht ihr's nicht?           感じられないのですか、見えないのですか?
Hör ich nur                                   わたしだけが聞いているの
diese Weise,                                 この旋律を
die so wunder-                             とても素晴ら
voll und leise,          しく静かな旋律を
Wonne klagend,                           至上の喜びを嘆く
alles sagend,                                 すべてを言って
mild versöhnend        穏やかに調和させる
aus ihm tönend,         あの人から響いてくる旋律
in mich dringet,                          わたしのなかに入り込み
auf sich schwinget,        あの人のうえで揺れ動き
hold erhallend          穏やかに鳴り響いて
um mich klinget?        わたしの周りで響いているこの旋律を?
Heller schallend,         ずっと明るく響いて、
mich umwallend,         わたしを包むように沸き立っている、
sind es Wellen                                それは波のように寄せては返す
sanfter Lüfte?         柔らかな吐息だろうか?
Sind es Wogen         波/雲のような
wonniger Düfte?         至福の芳香だろうか?
Wie sie schwellen,         それがなんとふくれあがり、
mich umrauschen,         わたしを包んでざわめいていることか、
soll ich atmen,          わたしは息をしているのか、
soll ich lauschen?           わたしは聞いているのか?
Soll ich schlürfen,                   滴りを飲み込んでいるのだろうか、
untertauchen?           わたしが沈んでいるのだろうか?
Süss in Düften           甘く香りに包まれて
mich verhauchen?        自分が消えてしまえばいいのか?
In dem wogenden Schwall,    波打つ大波のなかで、
in dem tönenden Schall,      響き渡る響きのこだまのなかで、
in des Welt-Atems       放たれる息吹で
wehendem All ---        充たされる宇宙のなかで——
ertrinken,             溺れて、
versinken ---          沈んで——
unbewusst ---           意識の彼方で——
höchste Lust!                  このうえないよろこび!