うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

流動する複層――エサ=ペッカ・サロネンの音楽の自然の秩序

流動する複層――エサ=ペッカ・サロネンの指揮する音楽をそのような言葉で言い表してみたい欲望に駆られる。サロネンの音楽は、多声的でありながら、和声的なところに回収されない。縦のラインで輪切りにして、それを連続させるのではなく、相互に独立した横の流れを切断することなくそのまま層状に重ね合わせていく。

それぞれのパートやレイヤーが、スーラの点描画のように、他と混ざり合うことなく、自律したまま、全体を構成する。スーラと違うのは、サロネンの音楽の単位は静止した点ではなく、流動する線であるところだ。

点の集合体というよりも、流動する地層。しかも、それぞれの層に独自の生命力が備わっている。マクロなレベルで複数の音の流れがダイレクトにシンクロするけれども、中心点や上部構造がないリゾーム的な繋がり方。全体が釣り合っているけれども、重心のようなものがなく、まさに全体のバランスによって平衡状態が達成されている。

弦楽器のピチカートや管楽器や金管楽器の打ち込み、主旋律の裏の旋律が、主旋律と対等に迫ってくるけれども、そこには主旋律の座を奪ってやろうというような野心や対抗心がない。低弦は軽やかに高音と絡み合い、高音の管楽器が金管の下のほうと同調する。

どこかリゲティクラスターのように。

主と従のようなヒエラルキーがないというより、序列概念がそもそもサロネンの指揮には存在しないと言うべきだろうか。

さまざまな音型のあいだに余白がある。普段は聞こえない、聞こえづらい音が、さもあたりまえのようにふわりと浮上してくる。解像度は高いし、見透しもよいけれど、わざとらしさがない。裏の音を強調してやろうとか、隠れた構造を表面化させようという無理強い感がない。見る角度によって異なる模様が浮かび上がる織物のように、いくつかの可能性が音の表面で自然に共存している。

整理された混沌。

サロネンドビュッシーを深く敬愛する一方で、ラヴェルにたいしてはどこか距離を取っているのもよくわかる気がする。サロネンの音楽づくりにとってラヴェルはおそらく静的すぎるし、整いすぎている。理性的な正解ではなく、感性的な響きの質感のほうを選び取ることができるドビュッシーの明晰なファジーさ、澄んだ淀みこそ、サロネンの直感に連なるものだ。

ロサンゼルス・フィルハーモニアやフィルハーモニア管といった、一流以上超一流以下のオーケストラと長く付き合っているのも、似たような理由なのかもしれない。サロネンの音楽世界はなかなか異質なものであり、だからこそ、波長の問題があるのだろう。サロネンの音楽が求めているのは、個人技ではないし、超絶技巧でもない。オーケストラ全体のまとまりというわけでもない気がする。パートのウネリであり、さざ波のような微細な運動性から湧き上がる大局的な動きだ。

面白いことに、サロネンの手にかかると、縦に重なる音の響きこそというメシアンや、リズミックな縦ノリの律動こそというストラヴィンスキーすら、自律的な横の流れからなる層状音楽に聞こえてくる。

 

サロネンの指揮はどちらかというと鋭角的で、直線的なところがあるので、この流れのよさはどこか不思議な気もするけれども、サロネンの音楽の気持ちよさはカラヤンのような流線形とはまったく異なる。

サロネンの指揮姿はもっとキネティックであり、器械体操的な感じがする。だからサロネンの音楽には有無を言わせぬ物理的な快感があるのだけれど、にもかかわらず、知性的な興奮もある。おそらく、彼の抒情性が、感情的なものでもなければ感傷的なものでもないからだろう。

サロネンの感性は人間というよりは自然の秩序に通じている。

 

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