この充実ぶりは何なのだろう。豊穣というわけではない。みずみずしい弾力性ではなく、生硬な不器用さがある。音は磨き抜かれているけれども、角が取れて滑らかになるのではなく、地肌が露出して、ごつごつとした手ざわりになっている。
無骨なのだ。音がぶつかり、軋んでいる。弦のトレモロのざわめきが表面に浮かび上がる。和音の下の音、主旋律の裏の伴奏音型が騒々しいほどに表に出てくる。すべての音が均等に鳴りすぎて、雑然としたところさえあるような気がするのに、見透しは驚くほどにクリアで、すべてがひどく澄んでいるのに、怖ろしいまでの重量感がある。
音の密度が桁外れだからだろう。それぞれのパートの音型が極限まで練り上げられ、ほかのパートの音型と拮抗する。音量や音高ではなく――というのも、音量でいえば管楽器は金管に勝てないし、音高で言えば低弦はかならず負けてしまうものだから――、音の凝縮度の高さにおいて、均衡が成立する。
だから、たとえば、『悲愴』の2楽章の弦のピッチカートと、金管の打ち込みと、木管の旋律が、等価に置かれているように聞こえてくる。3楽章の終結部近くの木管と弦の上昇下降音型は、音量で言えば、そのまえの金管の盛り上がりにどうしても負けてしまうところだが、ドホナーニは上昇下降を一続きにするのではなく、上昇と下降が切り替わるところでもういちどアクセントをつけさせることで、音楽の流れを細かくし、音の密度をキープしている。
アイヴズの「答えのない質問」のフルート四重奏も、リゲティの「二重協奏曲」のソロのフルートとオーボエにしても、音は硬く重く、内へ内へと向かっていく。
そのくせ、ドホナーニの指揮はわりとフリーハンドになっている。若いころの指揮姿を見ると、細部をマニアックに掘り返すような、オーケストラのすべてをコントロールせずにはいられないような、偏執狂的なところすらうかがわれるところがあるけれど、椅子に座ったままのいまのドホナーニは、細部の徹底的な管理を志向していないようだ。
YouTubeの日付を信じるなら、これは2020年1月20日の演奏だから、1929年生まれのドホナーニはすでに90歳を越えているが、この演奏から老いのゆるみのようなものは微塵もない。
パートがパートとして依り合わされ、パート同士が依り合わされて、ひとつの大きなウネリとなっていくけれども、大きな流れのなかでも個々のパートは独自の運動性を保ち続けている。
対位法的なところが迫り出してくるような音楽だが、奥行きの深さはあまり感じない。むしろ平面的な厚みがある。晩年のセザンヌのような、晩年のゴッホのような、平面に奥行きが塗りこめられているような手ざわり。
音楽はむしろこじんまりとしている。スケールは小さく聞こえる。しかし、ひとたびなかをのぞいてみると、生命力の奔流に圧倒される。音が生き物のようにうごめいている。アイヴズも、リゲティも、チャイコフスキーも、ドホナーニはすべて、生々しい音のぶつかりあう密度の濃淡とそこで必然的に生じる運動という観点から、指揮しているのかもしれない。
コンサート自体がひとつの音楽世界を形成している。