うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。全人的な行為としての教育。

特任講師観察記断章。アメリカ人の鉛筆の持ち方のひどさについてはかなり前に書いたことがあるけれど、それと同じ現象を日本でも観察できるようになってきたのかもしれない。学期末の試験のあいだ、学生の手元を見ていると、なかなか個性的なペンの持ち方をしていることに気がついた。いまもう学校では矯正されないのだろうか。親指の腹のあたりをペンに添えていたり、人差し指中指の添え方のバランスがいびつだったりと、かなりバリエーションがある。もしかすると、デジタルコミュニケーションの台頭とともに、手書きの重要性や使用頻度が落ちてきたせいで、ペンの持ち方にたいする関心が相対的に低下したせいもあるかもしれない。

学期末のプレゼンテーションにQ&Aの時間を設けてみたが、どうもうまくいかなかった。質問がまったく出なかったわけではないけれど、「あなたはなぜ」的な質問になってしまうことが多かった。トピックそれ自体にたいする質問にならなかった。知そのものにたいする興味よりも、人にたいする興味のほうが上まわってしまったということかもしれない。

英語のリズムそれ自体を教えようとしてみたが、うまくいったとは言い難い。それほど日本語の呪縛はきついらしい。とくにカタカナ語。eventは「ィヴェント」になるべきなのだけれど、「イーヴェント」としてしまう学生が圧倒的に多い。

その一方で、英語のリズムやノリで口ごもらせることには、ある程度成功したのかもしれない。言葉に詰まっているときでも英語の流れに乗る感覚を、身に着けてもらえたような気はしている。

知的な部分、理性的な部分はマスに教えられるけれども、身体的な部分、直感的な部分については、教える側と学ぶ側のある種の信頼関係が必要になってくるのかもしれない。

信頼関係を結ぶことが教育の一部であるとすると、教育は全人的な行為ということなのかもしれない。内容レベルにかぎれば、(能力や知識がある人であれば)誰でも教えることができる。しかしそれが誰にも響くかというと、そんなことはない。

教師と生徒のあいだで「あう」「あわない」という相性の問題は絶対に発生するのではないか。だからこそ、学ぶ方に、相性のあいそうな人を見つけるチャンスが与えられるべきだと思うのだが、そのためには大学の規模が必要であり、教え手の数が必要になる。無駄なほどの幅が要る。その余裕はいまの大学にはないのだと思う、残念ながら。