うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。自分のスピーチパターンの自己検閲。

特任講師観察記断章。自分のスピーチパターンを自己検閲する。いま英語で話そうとすると、かなり自然に言葉は出てくるけれど、それは要するに、使えるレパートリーが限定的だから、選択肢の幅が狭く、迷う必要が少ないだけでもある。だからだろうか、英語で話す場合、沈黙を埋めるためだけの無意味なフレーズ――umとかyou knowとかwellとかlikeとか――が無意識のうちに口をついて出ることはあまり多くない。それほどまでに英語で話すことが意識的なパフォーマンスになってしまっている。

ところが日本語になると、どんな事柄についても話すことができてしまうし、どんな言い回しでも思いのままに使おうと思えば使えてしまうがゆえに、逆に一瞬迷ってしまい、思わず「えっと」という言葉が口から洩れてしまう。その言葉が発せられた瞬間、「ああ、いま不用意に言葉を使ってしまった」という後悔にも似た気持ちが湧きあがってくる。日本語のコミュニケーションのほうが意識のコントロールに従わない部分がはるかに大きい。

それが正直すこし癪に障る。コミュニケーションを完全にコントロール下に置きたいというわけではないのだが、「えっと」というフレーズがただ単にあまり美しくない気がする。

そこで「えっと」のような言い回しをできるかぎり言わないという挑戦に先週から取り組んでいるのだけれど、これがなかなか難しい。時間にすればほんの数秒、いや、ほんの数瞬のことなのだとは思うが、まず、そのわずかな沈黙にたえる勇気がいる。大勢の人間のまえで、目の前で始まりかけている音のない空間にたちむかう精神力がいる。それから、息を吸いこんでから言葉を吐き出すまでのあいだの時間密度を濃くして、スローモーション化した精神の時間のなかで文章の冒頭を練り上げなければいけない。そして、「えっと」を省くということは、言葉の最初からきちんと聞き取れるように話すということだから、最初の音からはっきりと響かせるために、深い呼吸がいる。「えっと」と思わず漏れそうになる言葉を喉の奥に吸いこみ、代わりの真っ当な言葉を胸の奥から引き上げなければいけない。言葉にたいする真剣度が高まり、自分の身体との対話が深まる。

こうしたマインドフルな言葉の使い方が、はたして聞き手たる学生たちに何か有益な結果をもたらしているのかというと、それはわからない。もしかするとずいぶん人工的な話しぶりに聞こえるのかもしれない。いや、こちらがそんな小細工をしていることに気づいてもらえてすらいないのかもしれない。自己検閲はまったくの自己満足でしかないのかもしれないけれど、このほうが、話すことの快楽は繊細に感じることができる。