うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

「あなた」が旅するアメリカの物語:多和田葉子『アメリカ 非道の大睦』(青土社、2006)

二人称で書かれた不思議な小説。読者を強制的に、しかし威圧的ではないかたちで、物語世界の住民のひとりにしてしまう手法は、たしか、イタノ・カルヴィーノがどこかで試していたはずだがーー『冬の夜ひとり旅人が』だっただろうかーー依然として新しく、依然として奇妙な読書経験を作り出してくれる。

読者である「わたし」は決してこの小説において「あなた」と呼びかけられる人と同じ経験をしていない。人好きのしないドライバーと同じ車のなかで何時間も気まずいときを過ごしてマナティを見に行ったこともなければ、ラスベガスで子供の話をしたこともない。

しかし、この小説を読んでいると、あたかも自分がそのような経験をしたかのように、そのような経験によってかたちづくられる世界の一部になったかような錯覚するし、その錯覚に過ぎないはずのものがいつのまにか自分の実体験の一部にまでなってしまっているの気がついて心地よい不意打ちを味わってしまう。 

マナティはイルカと同じで大変頭がいいんですよ。」

 見ると、隣にヒッピーのような格好をした老人が立っていた。

「頭よさそうに見えないでしょう。お互いに雌や権力を得るために戦ったりしないから、頭わるそうに見えるんです。イルカも同じです。戦わないんですよ。利口さには二種類ある。猿型とイルカ型と。猿はボスから順に身分がはっきりしていて戦争ばかりしている。」

「それじゃあ人間は猿型ですね。」

「そうです。残念ながら。」

 あなたはいつの間にかマナティが好きになっている。(108頁) 

 

「さあ。でも、子供は禁止らしい。子供が生まれたらもうあの街[ラスベガス]には住めないんだって。」「どうして?」「子供のいるところで賭け事をやってはいけないって法律でもあるんじゃないかな。」「それじゃあ法律が逆でしょう。賭け事をしているところで子供を産んではいけないってことでしょう。」「それとも、子供が増えると、保育園とか幼稚園とか学校とか作らなければならなくなって、純粋利益の街じゃなくなるからかな。」(152頁) 

 

2004年から2006年にかけて「ユリイカ」で連載され、2006年に単行本として刊行された『アメリカ 非道の大睦』で描き出されるアメリカは、ポスト911の時代のアメリカだと思うのだけれど、あまりそうした感触はない。多和田は現代世界の政治や社会状況をさらりと作品に盛り込んでくる作家だがーーたとえば、2016年から2017年にかけて連載された『地球にちりばめられて』で登場人物たちはオスロに行くが、そこで登場人物たちが見聞きするテロ事件の余波はおそらく、2011年に起こったキリスト教原理主義者の右翼白人男性による銃乱射事件を踏まえているのだろう、決してそうとは明示的に説明されることはないけれどもーーここでは、政治的出来事によって作り出される短期的な潮流というよりも、ブローデルが「長い持続」と呼んだもののほうに、長い時間をかけて形成されるがゆえに短い間に一挙に変わってしまうことがないような恒常的生活感覚のほうに、フォーカスが当たっていると言っていいように思う。 

興味深いのは、それが、断片的な段落によって描き出されていくことだ。それほど長くない章は、それこそ数頁単位の小さな断片によって出来ている。断片から断片のあいだで話が飛ぶわけではない。断片のあいだに置かれた空白の数行は、連続するシークエンスのあいだに挟まれる一瞬の暗転のようなものであり……

 

とはいえ、ここで描き出されるアメリカが、アメリカ一般であるかというと、それは違う。「あなた」はアメリカのいろいろな場所につれていかれる。ロサンジェルス、ニューヨーク、ボストン、シカゴ、ラスベガス、フロリダ、ケンタッキー。飛行場、ショッピングモール、ブックストア、ミュージアム。さまざまなことを疑似体験するだろう。車の運転。砂漠。ロブスター。

これはあくまで「あなた」が旅するアメリカの特定の場所についての物語である。「非道の大睦」という副題は、大上段の命題というよりは、「あなた」の極私的な体験から導き出される個人的なものであるととらえたほうがいいのかもしれない。 

多和田の作品を特徴づける言葉遊びはここではかなり希薄だ。ないわけではない。彼女特有の脱臼的な会話の流れはある。しかし、ここでは、「あなた」という文学装置が、それ以外のものを後景に追いやってしまっているきらいはある 

 

単行本として刊行されるさいに書き下ろされた最終章にあたる13章「無灯運転」はかなり手触りがちがう。「あなた」という語りかけは同じだし、運転免許の話であるとか、ペーパードライバーの話は、本書に収められた他の章と呼応している。

では、何が違うのか。おそらく前章までは、ある程度まで、ルポルタージュ的な事実報告の側面が、テクストの本質的な部分にまで絡んできていたが、ここではそれが副次的なものに格下げされ、「あなた」の感性や情感を描き出すことがクローズアップされているところではないかと思う。

ここではもはやアメリカはホテルの一室に集約され、「あなた」の内側がその外側とつなげられる 

もう何日もこの部屋にこもっているのに、ドアをノックする人はいなかった。かまわないでくれるのは嬉しい。レセプションでは、客の体が腐って臭ってきたら警察に来てもらってドアをこじ開け、それまでの部屋代をクレジットカードから引き落とせばいいと考えているのかもしれない。クレジットカードの番号さえ分かっていれば、客の体などなくてもいい、ない方がいいと考えているのかもしれない。でも、身体が腐るまでは、まだまだ時間がかかるだろう。それにあなたは腐る予定など全くない。ただ部屋にこもっているという気分をウイスキーのように熟成させたいだけだ。それまでドアには触らないつもりでいる。ドアの方を見ようともしない。ドアは無視されているうちに、壁の一部になってしまうかもしれない。(176頁)

そして「カラスのお面をかぶった女」(179頁)に連れ出され、最後のドライブに出かけることになる。

あなたは女のやろうとしていることが理解できない。なぜ皮やヒゲつきのトウモロコシをホテルのテーブルのうえに並べたのか、なぜテレビの横に置いてあったウイスキーをグラスに注いで、トウモロコシの横に置いたのか。

不思議な儀式は、車の運転というもっともアメリカ的かもしれないもっともありきたりのシーンへと移行する。「「あなたはホテルにこもって孤独の醗酵するのを待っていたでしょう。その時の醗酵のイメージは、ケンタッキー州にあるバーボン・ウイスキーの工場から借用したでしょう」と言われたらもう言い返すこともできない」(182頁)と思いながら。 前章までは「アメリカ」が主であったのだが、ここでは「あなた」が中心に据えられている。

自然主義的な微に入り細を穿つような細密描写は、多和田の得意とするところではない。彼女は登場人物というきわめて特異な主観的フィルターを通して、ものごとの特定の側面とダイレクトにつながろうとする。だから、「あなた」という不特定多数の任意のキャラクターを狂言回しにするのは、多和田のなかでは傍流的なやり方ではないかという気がするし、だからこそ全編にわたってどこか実験的な手つきが残っていたのだけれど、それがこの最終章においてはとうとう完全に彼女の手中に収められたという印象を受ける。 

では、そのおかげでこの章がおもしろいものになっているかというと、どうだろうか。ひじょうに多和田らしい、とは言える。多和田は物語を終わらせることがうまくない作家だと思うのだがーーというか、すべてのプロットがきちんと閉じられる大団円のフィナーレを彼女から期待するほうがそもそも見当違いなのではあるけれどーーここでも、話はいきなり断ち切られる。というか、物語は終わらないようだが、テクストは終わってしまう。 

詩と地の文が交互に続けられ、テクストのスピードがグングン上がっていく。まだ話を続けてほしい、しかし、それは叶わない願いである。というより、願いは、読者から作者へではなく、作者から読者へと投げかけられるのだと言ったほうがいい。

「あなた」についてのテクストは、あなたに、あなたが持とうとは思わないのかもしれない希望の気持ちを与えることで終わりを告げる。

走るのをやめないで確かめたい。(186頁)

この宙吊り感、この取り残され感のそこはかとない哀しさと狂おしさと憧れこそ、彼女の文学のコアにあるものだ。 

あなたの見つめる水の中の 

あなた          (187頁)