うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。グレゴリー・ベイトソンから学んだこと。

特任講師観察記断章。「説明するというのは、テクストで使われている単語や言い回しとは別の言葉を持ち込むことです。というのも、テクストの言葉を使ってしまったら、単なる繰り返しにしかならないからです。それはトートロジー、同語反復です。では、どのような言葉を持ち込めばいいのか。」

「テクストにはこうあります。「数分、数時間で終わる孤独感がある。しかし、孤独感が数年にわたって続く人々もいる」。これを受けてthis complex phenomenonというまとめのフレーズがくるわけですが、「なにがcomplexなのか」というわたしの問いにたいして、「数分、数時間で終わる孤独感もあれば、数年続く孤独感もあるという点」と答えるのでは、説明として不充分と言わざるをえない。さきほど、「個人差があるところがcomplexと言われている」という意見が出ましたが、これもまだ言葉足らずでしょう。個人差だけでは、「程度」のことなのかと、つまり、「強い」孤独感を覚える人もいれば、を「弱い」孤独感を覚える人もいる、という話に聞こえかねない。「何における」個人差なのか、そこを明確にしなければいけない。」

「それはつまり、抽象度のレベルをひとつ上げるということです。こう言ってみてもいい。「数分、数時間」だとか「数年」というのは、何の例として、何のexampleとして用いられているのか。さあ、どうでしょう。そう、「数分、数時間」は「短期」、「数年」は「長期」のexampleであり、さらにいえば、「長さ」や「期間」ということです。「同じ孤独感でありながら、その持続期間において大きな違いがみられること」、それがcomplexだと言うことです。」

「この説明を聞いて、「なんだ、そんなことか、そんなことだったらわかっていたよ」と思ったかもしれませんが、「長さ」だとか「期間」という日本語がさっと浮かんでいたのかどうか。問題はそこです。自分で言葉の抽象度をコントロールできるかどうか。そして、一般から個別へ、抽象から具体へという流れを基調とする英語のロジックにのっとって書いたり話したりするには、このような論理階梯の上り下りを自由自在にできるようにならなければいけないのです。」

という説明を偉そうにしながら、「いや、でも、自分が大学生のころ、こんなことは自意識的にはまったく理解していなかったし、明示的に教えてもらったことはあっただろうか」と我が身をかえりみてしまった。

伝わっているのか伝わっていないのか、いまひとつわからない。しかし、自分としては、なにを伝えようとしていたのかクリアに見えてきた。このような考え方を教えてくれたのは、まちがいなく、グレゴリー・ベイトソンだ。

メタ的な飛躍を人為的に促進すること(はできるのか)、それこそ、ここ数年ずっと取り組んできたことなのだといまさらながらに気がついた。量的なものが自動的に質的なものに転化することはないとは思う。しかし、ある程度の量的な蓄積なしに質的な変容が起こるとも思えない。けれども、質的メタ的なジャンプが起これば、学びは、可算的ではなく乗算的に加速するのではないかとも思う。そのような飛翔のために最低限必要な量を確保しながら、ほとんどチート的な人工進化をもたらすことを、教育は成し遂げられないだろうか。

と書きながら、そのような加速主義が本当によいことなのかという疑問も湧いてきた。しかし、自分が味わわなければならなかった苦難を後続世代に体験させないような教育の道筋を考えること、自分が到達した地点が次の世代の出発点となるように配慮することは、甘やかし的な過保護とは別物だろうという気もする。