宮城聰作・演出『イナバとナバホの白兎』

20190609@静岡芸術劇場

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純粋な高揚感、または内容と強度

宮城の演劇が観客に与えるのは、感動というよりも高揚だ。身体的でもあれば精神的でもある高揚。もしかすると魂の高揚と言ってしまっていいのかもしれない。高揚であって感動でないのは、宮城の演劇は、観客にたいして、舞台上の人物への感情移入はおろか、シチュエーションにたいする共感や理解すら要求することなく、舞台の出来事の純粋な強度――音量、速度、人口密度、物体密集度――の高まりによって、絶対的な物量によって、こちらの感性の質的なリミットを振り切るからである。暴力的なまでに有無を言わせない力がここにある。それはかなりの力業だ。心理的な腑に落ちる感じだとか、理性的な納得とは別のところから、観客を別の次元にさらっていく。

『イナバとナバホの白兎』の幕切れはまさにそのような圧倒的な体験であった。打楽器が一斉にフォルティッシモで連打され、ビートが上がる。すべての登場人物が舞台上で一堂に介する。そして声を揃えて、武器であるはずの弓の弦が奏でる妙なる音を称え、それを授けた太陽神を讃える。

物語構造からすると、ここでの全員集合を正当化する理由はないように思う。ジャンル的な慣習としか言いようがない気がする。いや、『フィガロの結婚』や『セヴィリアの理髪師』にしても、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』にしても『ファルスタッフ』にしても、取って付けたようなものでしかないせよ、トゥッティになる劇的必然性は一応は担保されている。しかしここには、言い訳めいた口実をひねりだそうという往生際の悪さを、あっけらかんと断念している。何の理由もなく、イナバの神々と、ナバホの神々と、両者の神話の大元にあったのかもしれない捏造=創造された原-神話の神々が、同じ舞台の上で、同じ言葉を唱和する。なぜそうなるのか、そうだからそうなるのだ、というトートロジーが、不思議なまでの説得力をもって演じられる。これに匹敵する臆面のなさは『放蕩者の成り行き』ぐらいだろう。

この境界融解的な、下手をすればファシズム的な指導者崇拝になりかねないシーン――ナチズムという歴史の後で『マイスタージンガー』の幕切れの「Heil Sachs!」に無批判に感動することは倫理的に愚鈍であるし、おそらく『魔笛』の最後の合唱についても同じことが言えるだろう――でさえ、暗い残響はない。それは宮城がナイーブなまでにイノセントだからではなく、言葉の内容(太陽神への讃歌)がその対象(太陽神)に向けられていないからである。太陽神(たち)は舞台にいるし、原-太陽神は大多数のキャラクターたちより少し高いところにいるにもかかわらず、言葉の音もエネルギーもそちらに集中することはない。声=音は全方向に拡散し、舞台空間を充溢させる。意味やメッセージは後退し、無色透明でありながら絶対的なプレゼンスを発散するエネルギーの奔流が、客席に向かって突進していく。それはもしかすると、冷たい陶酔とでも言うべき精神/心理状態かもしれない。身体は揺さぶられ、精神が持っていかれるが、正気を奪われるわけではない。情動的であるが、忘我的ではない。

 

3部構成:イナバ、ナバホ、創作/捏造された神話

『イナバとナバホの白兎』はレヴィ・ストロースの仮説――日本に伝わるイナバの白兎の神話に似たものが北米先住民のナバホ族のあいだにも存在するが、それは日本からナバホへと伝播したものではないかという仮説、日本の神話のほうがナバホよりも断片的で拡散的なのは、時間を経るうちに、本来ならまとまっていたはずの要素がいくつかのエピソードに分裂してしまったからであり、それゆえ、日本のほうが古くナバホの方が新しいバージョンであるという仮説、そして、日本のものですらこの神話の原型ではなく、いまだ見つかってはいないオリジナル・バージョンはアジアの大陸どこかに存在したのではないかという仮説――にたいする、演劇的な返答である。演劇的に、存在しないオリジナルバージョンを創作/捏造しようという試みである。

あまりにトリッキーなやり方で要素を分解していくレヴィ・ストロース構造主義的神話分析はいまだにきちんと理解できていないし、イナバとナバホの神話がどこまで相似的なのかについても、あまり納得できていない部分もあるのだけれど――なるほど、川を渡る、試練をくぐり抜ける、結婚を許される、意地悪な義父=神、助力者である求婚相手、協力相手である双子的存在などは共通しているけれど、この程度の類似がそこまで決定的なのかどうかは、どうもよくわからないのだけれど――最後に置かれた創作パートが、この2つの神話の雛型になるように構成されているというのは、よくわかる。

強権的だが識者でもある農耕を教える老婆、出自のしれない双子の出生秘話(太陽と人間の女が交わって生まれた半神半人の双子)、父親探しの旅、川渡りのときの性悪な振る舞いとその報い(双子の片割れが失われる)、父=神との邂逅と試練(父の子であることを父=神に証明する)、試練を助ける父の娘、父の娘との婚姻――いま書き出してみてやっと気づいたが、これは神話にはよくある近親相姦的な関係だ――、父からの褒美、褒美として授けられる弓矢。

人類学を専門としない身にはよくわからないのだが、ここでは、農耕神話(老婆の指導のもと土を耕す)と狩猟神話(父から武器を授かる)が混ざり合い、そこに、起源物語(父を探しに行く)と原-神崇拝が絡み合っているように感じられる。つまり、時間的にも空間的にもかなり大きなスパンの生活様態を総合的に含みこむ神話のように思われたのだが、そのような神話は実在するのだろうか。実証的な真偽はともかく、ここにあるのは、後のバージョンに登場するあらゆる要素があらかじめオリジナルに含まれているという前提ではないかと思うのだけれど、それは正しくないような気がする。

ニーチェフーコー的な視点に立てば、起源とは、説明原理ではない。起源と、そこから派生したもののあいだに、論理的必然性はない。歴史のなかに出現する系譜とは、つねに、後代における恣意的な書き換えであり、そこに反映されているのは、起源の時点で種子的‐萌芽的に含まれていたものではなく――これはロマン主義的な考え方であり、ゲーテヘーゲル的なモデルであり、ビリヤード的な単線的な玉突きの因果モデルとともに、構造主義マルクス主義者のアルチュセールが批判したものである――、それぞれの時代に特有の、それぞれの時代の社会的要請や政治的要求と連動した、利害関係にほかならない。神話の変形がそこまで世俗的‐現世的な事柄であったのかは大いに疑問の残るところではある――神話もまた、科学と同じように、世界を理解し説明しようとする体系的な試みにほかならないという考えは、19世紀後半の比較神話学においてすでに提出されていたし、フレーザーの大著『金枝篇』はそのような思考に依拠していた――けれど、3部の神話が、はたして真理Truthとして提出されていたのか、それともあくまで創作Fictionとして提出されていたのかは、いまひとつよくわからない気がした。

これは演劇的な再創造であって学問的な証明ではない、といえばそのとおりですあるし、仮説の真偽によってこの演目の良し悪しを言うのは的外れだろう。しかし、3部は1部や2部とは時間的にも地理的にもべつ位相にあったというほうが正しい気はする。時間的に言えば、1部のほうが古く、2部のほうが新しいわけで、それなら3部が一番新しい(1から3へと時代を下っていく)と考えるほうが筋が通っているかもしれないのだけれど、演出ノートを額面通りに受け取るなら、3部の創作神話はイナバよりもナバホよりも古いものとして想定されているようだし、もしあれをイナバとナバホの原‐神話とするなら、「武器を楽器にする」という発想がなぜ失われたのかという疑問がわいてくる。

暴力的なものを芸術的なものに転化すること、それは、具体的なものを象徴的なものに転化することで物理的な暴力を局所化したり極小化したりする儀礼とパラレルな運動である。そしてそれこそ、宮城とSPACが試みていることであるように思うのだけれど、もし3部もそのような試みの一環と捉えることができるとすれば、これは虚構的なものであると言ったほうがいいだろう。それはニーチェが『反時代的考察』で述べたような、「自分が生起したかった起源を、遡及的に創り出す」行為にほかならないだろう。力よりもさらに深いところに芸を書きこむこと、それはきわめてパフォーマティヴナ行為だろう。遠い遠い過去を修正することによって、これから来る未来のための可能性を生み出すのだ。

 

演出の様式感、マンネリズム、マネリズム

そうであるからこそますます、内容の真実性は究極的には二次的なことであると言ってしまっていいのかもしれない。この舞台で重要なのは、「何がWhat」というよりも、「どういうふうにHow」という演出的側面のほうだからだ。 

空間:1部と2部は一風変わったシンメトリーをなしている。舞台中央に、半透明の御簾――紐状のカーテンのようなもの――が、曲線を描くように吊るされている。1部では、語り部と音楽隊がカーテンのなかにおり、物語はその外部で演じられる。2部では、語り部と音楽隊がカーテンの外を取り巻くように配置され、物語はその内部で演じられる。3部ではカーテンが上空に引き上げられ、雨のような星空のような、不思議な効果を作り出す。

舞台空間の利用ということになると、暗がりのなかで演じられた2部がもっとも幻想的であり、もっとも成功していた。半透明のカーテンと照明の相乗効果で、キャラクターの輪郭だけが浮かび上がったり、頭部だけが強調されたり、妖しさと神々しさが同居していた。1部は、演技可能な空間をかなり制限してしまう中央のカーテンのせいで、つねに、狭い空きスペースを見つけてどうにかやっているという雰囲気になってしまっていたように思う。なるほど、カーテン部分を中心にしたループ構造を作り、そこを周回することで時間の経過や場面の転換をするというやり方は、なかなか面白いものではあったけれど、この時空間操作の上手さと舞台運用の窮屈さを比べると、不利益のほうが大きかったように感じた。

3部は舞台を妨げるものが取っ払われ、舞台後方におかれた階段や、太陽神が上り下りする移動式階段を別にすると、舞台装置めいたものはなく、楽器も語り部も、舞台の見えるところに置かれていた。空間を広くとることは、フィナーレのために重要な措置であったことはわかるが、1部2部にくらべると、空きスペースが多く、やや空間が寂しい気もした。

仮面:宮城の神話的物語によくあるように、神々は仮面的存在である。そして仮面の造形は、ある特定文化にインスパイアされながらも、その忠実なコピーというわけでもなさそうである。イナバの神々の仮面の鼻は何となく大きすぎる感じがしたし、ウサギの仮面も少々ポップすぎるような感じがした。ナバホの仮面はひじょうにそれらしいものではあったが、だからこそ、シミュラークル的なもの――コピーのコピーのそのまたコピーの……――ではないかという疑いを抱いてしまう。オーセンティック「らしい」けれど、オーセンティック「そのもの」ではないかのように。

とはいえ、これは意図的なものだろう。たとえば、あきらかにオーバーサイズなナバホの仮面は、自らの創作的なオーセンティックさを故意に明かしていたように思う。いや、もしかするとナバホではあのサイズが普通なのかもしれないけれど、『顕れ』と同じサイズ感であったことを思うと、あれは考証的に正しいものというよりは、宮城演出が要求したものであるという側面のほうが強いのではないかと思う。

イナバとナバホがともに仮面劇であったのにたいして、原‐神話が無面劇であったのはどういうことなのだろう。装いにしても、イナバでは見るからに和装的であり、ナバホは見るからにナバホ的であったのに、3部の登場人物たちは形も色もプレーンな衣装をまとっていた。これはもちろんイナバとナバホの源流にあたるものに、ある特定の文化的なカラーを与えることを拒否したからなのだろうが、それでも、完全に無色透明な無参照的なものでもなかったように思う。Vネックのような白い服はどこか日本の弥生時代的(?)な貫頭衣を思わせたし、太陽神のリーゼント的な髪型やあごひげはどこか日本神話の男性神を、太陽神のもつ矛は中国的なものを連想させた。

コーラス:今回もっとも野心的なことをやっていたのはコーラス部分だ。ボイパのような楽器的な声の使い方があれば、舌打ちや息を吐く音のような声とはいえない音の使い方があった。非自然主義的にセリフの自然な流れを意図的に切断するようなアーティキュレーション、特定の単語を強調するかのようなフーガ的でカノン的な発声はいつもどおりだが、それらがかなり複雑に組み合わされており、ほとんど独立した音楽のように機能していた。実際、歌に近い旋律もあれば、中世教会音楽のようなアカペラもあった。合唱的な効果についていえば、とくに女声は見事な出来だった。20世紀無調音楽とまではいかないが、後期ロマン派から20世紀の調性的モダニズムの系譜に連なるような、かなり危うい和声でのハモリが多用されており、しかもそれがきわめて美しく響いていた。コーラスは今回の公演でもっとも精緻に練り上げられていた要素だったと思う。

音楽:宮城が確信犯的にオリエンタリズムを持ちこむことはもう重々承知しているけれど、それでも、1部のイナバの白兎パートにおける和太鼓の使用はさすがにやりすぎではないかと思った。和を意識した1部、静謐な2部、鉄琴やベルのような硬質に煌めく楽器を多用した3部、打楽器を総動員した締めくくり、どれもうまくはまっていたことは間違いないけれど、いつもどおりと悪口を叩くこともできなくはない。

ムーバーとスピーカー:いまだに宮城のムーバーとスピーカーという二人一役の演出的意義がつかめないでいる。身体と言葉のズレを可視化すること、演技と意味のつながりを異化すること、理論的にいえば、そのようなところになるのだとは思うが、宮城はこれをあまりシステマティックには使っていないようにも思う。たとえば、男の体に女の声を、女の体に男の声を「つねに」かぶせるというような使い方はしない。今日の公演で気がついたのは、ムーバーとスピーカーが驚異的なレベルでシンクロすると、発声と身体が別々の人間によって演じられていることを忘れてしまうという点だ。それぐらい言葉と演技がハマっている瞬間があった。それは宮城の演出プランからすると、成功なのか不成功なのか。

宮城の演出はきわめて様式感の強いものではある。身体と言葉の分離、それはつまり、自然主義的な演技が尊ぶ自然で自発的な表出を意図的に宙づりにすることである。有機的な融合のほうがフェイクである、言葉と身体がナチュラルにつながっているほうが例外である、宮城はそう言いたいのかもしれないし、だからこそ、宮城の舞台の俳優たちの身体所作はつねにどこか振付的である。ダンスほど踊りめいてはいないが、日常生活のなかで普通に使われるような動きではない。そしてそこに、意味の流れを意図的に分断するような語りやコーラスが加わる。わたしたちが自然だと思っているもの―――言葉と意味の表裏一体性、言葉と身体のシンクロ性――すべてが異化される。

しかし、コーラスのほうはテクニックが向上するほどに異化が進む――そうなってくれば、言葉の意味ではなく、声の存在感や旋律の美しさやリズムの心地よさが前面に出てくるだろう―――が、二人一役のほうは、むしろ異化作用が弱まるようにも思う――ムーバーとスピーカーのシンクロが高まれば、声と体のつながりは担保されてしまう、たとえそれが、別人の声と体のつながりであるとしても。

 

興味深いと思うのは、宮城の演出方法論は、戯曲のテクスト構造の内的な要求と、かならずしもリンクしていないのではないか、という点だ。もちろん、テクストと演出が融合しているべきであるという想定は美的イデオロギーであり、ある特定の時代の特定の美学にもとづく特殊なものにほかならないわけで、それを普遍化するのはあきらかに間違っていることは完全に承知したうえで、それでも、なぜ宮城は演出とテクストをいわば意図的に遊離させておくのかと問うことは無意味ではないと思う。

つまるところ、宮城の演出は、きわめて深いと同時に、きわめて表層的である。人類にとって普遍的な問題に真正面から取り組もうという強い意志がある一方で、その目的のために手段――二人一役、コーラス、音楽――を完全に従属させたがらない。すべてはゆるやかにつながっている。アナロジー的な、自由連想的な結合であり、どこかがどうしようもないほどに開きっぱなしなのだ。

それはよいことだと思う。全体の完全なコントロールをあえて放棄することは、勇気のいる行為である。開いたままにしながら、全体のクオリティを維持することはきわめて困難なことである。にもかかわらず、宮城はその両方において成功している。だからこれを咎めるのはあまりに的外れだとは思うのだけれど、宮城の演出作を8つほど見たあとで思うのは、これ以上宮城の演出を見ても何か似たような印象を受けるのではないかという困惑の気持ちである。

宮城の完成された様式美を楽しめばいいというのはひとつの見識であるし、宮城がここからさらに進化していくさまを気長に見守ればいいというのも正しいファン心理だろう。しかし、どうもそう思えないかもしれないと、今日の公演を見ながら少し感じてし戸惑ってしまった。

 

アフタートークのなかで、宮城は、自身が演出した『マハーバーラタ』を見ながら、困惑を覚えたと正直に告白していた。『マハーバーラタ』のように、匿名的で集合的なテクスト、様々な文化が長い時間をかけて混淆していくさまをそのうちに体現しているテクストをやってしまったあとでは、近代演劇はたったひとりの作者のちっぽけな窓から垣間見られた世界でしかないような気がしてしまう、という感覚はよくわかるし、近年の宮城の祝祭劇的転回の根底にあるのは、その困惑の感覚との格闘なのだろう。

しかし、この宮城の真摯な態度が、ある種のマンネリズムとマネリズム――同じものの別様の繰り返しと、繰り返しによる自己目的的な精緻化――を招いてきてしまっている側面はあるようにも思う。とはいえ、そこから抜ける方策が、アフタートークのゲストであった青木保――人類学者にして、元文化庁長官――の言うような、アジア圏をターゲットにした文化政策的なものであるとは思えない。

21世紀はアジアにおける文化の時代である、しかも、過去の文化遺産ではなく現代文化のことだ、経済にしか投資してこなかった東アジアの国がいまや文化へ積極的に投資するようになってきている、シンガポールや中国は国家主導で文化政策や教育政策(大学教育)に金を投入しているし、それによってアジアにおける大学レベルが急速に高まり、すでに日本を追い抜いている、日本が(そして静岡が)考えるべきは、SPACをもっとアジア圏でPRしていくことではないか、観光資源としての文化をもっとうまくプレゼンテーションできるようにすべきだし、演劇をテコにしてアジア各国から観光客を呼べるようになれば、それに付随してホテルやレストランの需要も高まる――そういう趣旨の青木の発現にはいちいち頷かされるし、いろいろ蒙を拓かれた思いがするのではあるけれど、はたしてそれでいいのかという疑問は依然として払拭しきれない。

というか、宮城が一貫して取り組んできたのは、静岡のような「地方」において「公共芸術」として演劇をやるというプロジェクトではなかったか。そのためにこそ、普遍的な主題が追求され、宮城的と名づけられるような様式性が確立されてきた部分があったように思う。アジア圏にアピールすることと、県民にアピールすることがまったく相反するものだとは思えないし、「現代文化」をターゲットにする以上、グローバル化による均質化や平準化が進んでいる現在、必ず何かしらのオーバーラップするゾーンは見出されるだろう。しかし、かりに宮城の演劇においてモダニズム的な非自然主義的演出=手段と、祝祭的内容=目的とが有機的には完全に融合していないとしても、ここでは、後者の美的目的、疑似宗教的とさえ呼びたいほどの目的性がすべての根底にすえられている。はたしてそれが、アジア圏において「売れる」ものだろうか。 

SPACは公共物Res publicaであって、宮城の私物ではない。SPACの公共的使命というのは、県の文書のようなものできちんと定義されているのだとは思うが、そうした官僚的なものと、宮城の美学的クレドのようなものと、観光資源という文化政策/経済戦略とを、うまく融和させて相乗効果を起こさせるための共通の地平のようなが、いままさに必要とされているのかもしれない。