地方の公立美術館が所蔵すべき品は何なのだろかと考えてしまう。地元にゆかりのある芸術家、地元を題材にとった作品だけを集めるのは、美術館というよりは郷土館の役割という気がするし、美を郷土愛=主義(パトリオティズム)に帰属させるのは的外れであるように思う。しかし、「名作」だとか「大芸術家」と呼ばれる過去の作品が有限であり、すでにどこかの大美術館に所蔵されている以上、そうしたものは、床面積も小さければ予算も小さい地方美術館には手が出にくいものだろう。ちょっとニッチなところを狙っていくという戦略は、妥当でもあれば、強いられたものでもあるだろう。
古典的な風景画、とくに18世紀西欧の古典主義的な風景があまり好みではない身からすると、静岡県立美術館の風景画に特化したコレクションは自分のストライクゾーンから外れるところが大きいのだけれど、それでも何点か面白い絵はあった。
ターナー晩年の小品の水彩画、セザンヌのスケッチは抜きんでている。徳川慶喜の油彩画は特別うまいというわけではないが、なかなか興味をそそられる。
香月泰男に惹かれたのは、留学時代の友人が博論を書いているせいでもあるけれど、香月の抽象的具象性はそれを抜きにしてもやはり面白い。ロスコ的な感じもするが、ロスコがどこかエーテルのように霧散していく幾何学的神秘性をただよわせているのにたいして、香月には大地に根差した重みがある。
草間彌生や村上隆の大きな作品は、スケールに圧倒されるし、このサイズは実物を見なければわからないところがある。伊藤若冲の屏風を所蔵しているのは知っていたが――そういえばこの屏風はたしか震災後に開かれたBowers Museumでのプライス・コレクション展で見たように思う――、藤原定家の手になる写本だとか、応挙の掛け軸だとか、大観の屏風あたりを持っているのは知らなかった。
しかし、有名どころの作品になると、やはり微妙に落ちるような気はする。大作にはすこし弛緩したところを感じてしまうし、小品には自己模倣的なニュアンスあるような気がしてしまう。
とはいえ、大傑作だけが美術館が所蔵されるべきだというのも違うだろう。現代美術ではなく17世紀までさかのぼる過去の東西の風景画をという方向性はたしかに意義あるものだろうし、それは、館長の木下直之の言葉を借りれば、「富士山をいただく地に美術館があることにちなんだ」ものだという。だからこそ「日本の美術では狩野派や文人画家を中心とした近世絵画が充実」しているのだという。
なるほど、美術館の理念をその土地の歴史的磁場と共鳴させるというのは、単純な郷土愛=主義を奉じることではないけれども、後者から逸れていくほどに、「この美術館がほかでもないこの地にあらねばならないわけ」が希薄になっていくような気もする。
というようなことを、入場料300円の企画展を見ながらつらつらと考えていた。