ジェフリー・テイトはサインをもらいにいった唯一の指揮者だ。2000年前後の読響とのエルガーだったと思う。正直、演奏会の内容はあまり覚えていないし、そこまで感動した記憶もない。しかし、なぜかテイトは自分にとって気になる指揮者であり続けている。
同じ録音だというのに、素晴らしく面白い演奏に聞こえるときと、まったくつまらない演奏に聞こえるときがある。捉えどころがないというか、捉えがたいところがある。
先天的に二分脊椎症を患っていたテイトは、ケンブリッジ大学で医学を学んだ後、音楽の道に入っていく。ピアノに堪能だった彼は、オペラ歌手の下稽古をつけるコレペティトールとしてキャリアをスタートさせる。
コヴェント・ガーデンではショルティの薫陶を受け、バイロイトでは語学力を買われてブーレーズとシェローの裏方として働いている。ショルティやカラヤンのモーツァルトのオペラ録音ではチェンバロを弾いている。
1948年の創設以来常任指揮者をもたなかったイギリス室内管弦楽団の初代首席指揮者に任命されているように、オケからの信頼は厚かったのだろう。内田光子とのモーツァルト協奏曲の録音もある。サポートに長けた音楽家でもあったのは、彼が、コンサート指揮者というよりもオペラ指揮者だったからだろう。
しかし、そのような確かなテクニックとマネージメント能力を持っていたにもかかわらず、テイトの作り出す音楽は、方法論的に首尾一貫したものには聞こえない。彼の音楽の根底にあったのは、感性的な閃きだったのではないのかという気もする。テイトの音楽は彼の音楽的センスの賜物であり、きわめて主観的で、だからこそきわめて抒情的だった。
テイトがECOと録音したモーツァルトの交響曲は、構えが大きい。室内オケの特性を生かしたクリアな造形であるけれど、コンパクトにまとまっているわけではない。奏者の数はそれほど多くないと思うのに、下手をするとフルオケの演奏よりもスケール感がある。フレーズの筆致が悠然としていて、けっして焦ることがない。
流線形のカンタービレの音楽作りではあるけれど、ホモフォニックにはなっていない。楽器間の受け渡しの処理が繊細で、パートの層的な重なりがクリアに表現されている。横に流れていくが、縦の構造も同時に立ち上がってくる。
快速な古楽器演奏が台頭していた80年代以降の録音にもかかわらず、テイトのテンポは遅い。彼の速度は個人的な確信の産物であるように思うし、フレージングについても同様だ。「こういう学術的裏付けがあってこうなる」「こういう音楽的系譜にのっとってこうなる」というような必然的な先決め感がない。すべてが恣意的な美的感性によってゼロから作り上げられているような印象がある。だからテイトの演奏は、わりとありそうな感じでありながら、誰の演奏とも似ていない。
テイトの指揮はあまりうまい方ではないと思う。大きな手を縦に上下に動かすというのが基本の所作で、身振りの表現の幅は狭い。それはもちろん、全身を使って指揮をすることができないという身体的条件による部分が大きかったと思うのだけれど、テイトの音楽自体が見せかけのダイナミクスやデジタル的な揃い方を求めていないというのも事実である。
烈しい激情がある。表現しきれないものが彼の手の動きやかたちからあふれ出してくる。
ファジーな繊細さ、抒情的な客観性。テイトの音楽をそんな矛盾したフレーズでまとめてみたくなる。テイトはオケが持っている音を変えさせようとはしなかったのだと思う。
どんなオケを振っても似たような系統の音を作り出せる指揮者がいる。奇しくもテイトがアシストした指揮者たち――ショルティ、ブーレーズ、カラヤン――はみなそうした能力を持ち合わせていたけれど、テイトは、フレーズ感や全体のバランスこそ自分好みに整えるものの、音色そのものについてはオケに委ねていた。だから彼の録音を聞くと、響きが微妙にバラけているような感じもする。
しかしそれは、彼が、奏者の音の多様性を信じ、愛しているからではないのかという気もする。率いながら従わせることはしない。支配なき統治。
たぶんテイトの音楽に惹かれるのは、彼が、完全ではないし完璧ではないにせよ、そうした不可能性を録音として留めることに成功していたからなのだろう。