うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

想像的に捏造された(のかもしれない)写真の誕生の諸瞬間:村上華子「du désir de voir 写真の誕生」

20221228@ポーラ美術館

村上華子の「du désir de voir 写真の誕生」は展示全体がひとつの作品になっている。それは写真の誕生の複数的な瞬間を創造的に(再)構築しようという試みなのだ。なるほど、たしかに、「写真」というものが具体的なモノとして誕生した日時は確定可能かもしれない。しかしそれを可能ならしめた技術や発想も、写真の誕生の日時に書き加えることができるのではないか。それは、誕生を一つの瞬間に還元するのではなく、さまざまな領域にまたがるプロセスに展開することである。

だからこここには、ニエプス自身の書簡からの一文、ニエプスに霊感を与えたらしい小説の一節、写真技術の開発のなかで用いた様々な素材のリストが展示されている。それから、ニエプスが用いた化学反応を追体験するために作り出された銀板。さらには、ニエプスの心象風景であったのかもしれない庭のイメージを表現した薄布のカーテン。

キュレーター的な感性による展示と言ってもいい。しかし、キュレーターであれば、実在する過去のモノを集めてくるところである。アーティストである村上は、過去にあった(はず)のモノ、この世に実在していたモノも、この世に生きた人間の頭や心の中にしか存在していなかったモノも、想像的に捏造する。

歴史的な創造の諸瞬間に立ち会わせたような、不思議な興奮はある。しかし、ひとつひとつの展示物については、好奇心以上のものを抱きづらいところでもある。

ポーラ美術館は不思議な構造をしている、という印象。ひたすら地下に下っていくことになるけれど、採光が巧みなので、下りていくことが暗さにはつながらない。美術館のサイトによれば、「建物のほとんどが地下に埋まって」おり、「木々を越えないように地上8mの高さに抑え」られている。「ゆるやかな傾斜地に」掘られた「直径74mの円形壕」に「免震ゴムを設置」し、「安全免震構造によって、建築を浮かせ」ているという。「私たちの美術館は、光と緑でできている」というのは、決して誇張ではない。

所蔵品が、ピカソ展に合わせて展示されている。青をフィーチャーした「The Blue」のなかでは、森芳雄の「母と娘」(1961)と松本竣介「街」(1940)がとくに面白いと思った。ポーラ美術館はところどころで撮影OKの作品があるけれど、SNS投稿は不可となっているものがある。ふたりの作品は、写真は撮ってもいいけれどネットにはアップできないカテゴリーだった。

ゲルハルト・リヒターの作品は、正直、あまりピンとこなかった。技術的な卓越性はわかるけれど、個人的に好きか、個人的に響くところがあったかと訊かれると、返答に困る。

所蔵品の有名どころを展示するスペースは、印象派の絵がある部屋が大人気なのに、20世紀中盤から後半の作品が飾ってある部屋になるとガラガラ。しかし、個人的に好きなジョアン・ミッチェルを生で見れてとても満足。