うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20240526 静岡市美術館「京都 細見美術館の名品」を観る。

20240526@静岡市美術館 「京都 細見美術館の名品」

最終日に滑り込んで見てきたけれど、このような個人コレクションはそのために建てられたスペースで見るべきものであるような気もするし、それどころか、3代に渡って収集された日本美術は果たして、美術館という空間に展示されるべきものなのだろうか。

現在美術館にある品々はかつて、宗教的な崇拝のための物品であり、権力者や富裕層の居住空間における装飾であり、民衆の生活を彩る道具であったわけだけれど、それらの差異は美術館のガラスケースの向こう側にキャプションと一緒に恭しく並べられると、いらぬアウラが発生してしまい、実際以上に神々しく、近寄りがたいものになってしまう。しかし、そのようなよそよそしさは、私的なコレクターであった初代の望んだ姿なのだろうか。

などということを考えながら見てしまったのは、屏風にせよ掛軸にせよ、それらは住居の一部として、オーダーメードされたものではなかったのかという気がしてきたからだ。細見コレクションは、世評に先駆けて伊藤若冲を収集していたというし、琳派を系統的に収集していたという点でも、一家言ある目利きだったのだろう。しかし、初代二代が集めたのは、西欧的な意味で制度化されたものとしての絵画ではない。

というよりも、日本にしても海外にしても、装飾的なものが安価に大量生産されるようになった近代以前においては、生きるために必要ではない物は経済的余裕の証であり、権力の象徴であったのではないだろうか。そのような歴史的象徴を細見家は所蔵し、私的美術館というかたちで公開し、それがいま、巡回展覧会というかたちで不特定多数の目にさらされているのである。

というわけで、愉しめたのか、そうでないのか、いまいち自分でもわからない。しかし、掛軸や屏風に描かれている人物は類型化されるのが普通であり、だからこそ、見たままに表現するという写生の思想が明治期において革命的だったことはよく理解できた。その意味では充分に愉しめた。学ぶところは多かった。

しかし、展覧会に行くのは学びのためだけではない。それ以外の、それ以上の何かがあってほしい。そのような何かがあったのかどうか。さて、どうだろうか。