うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

民話的なもの神話的なものの創作:鴻池朋子「みる誕生」

20230107@静岡県立美術館とその裏山

鴻池朋子の「みる誕生」展を終了2日前に見に行く。県美の自前の所蔵品は、風景画が中心であるがゆえに、わりと古典的でオーソドックスな絵が多いようであるし(少なくとも、所蔵品で構成された展示をこれまでに見てきたかぎりの印象では)、自慢のロダン館にあるロダンの彫像にしても、現在ではもはや古典的と言っていいものだろう。けれども、どういうわけか、定期的に現代美術の特別展がある。鴻池朋子の「みる誕生」展もその系統に入るものだ。

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鴻池朋子の個展ではあるが、同時に彼女による企画展という感じもする。美術館の全展示スペースをつなぐロープがある。壁にはわせてあったり、部屋の真ん中を横切っていたりする。入口からいくつかのスペースでは、美術館の所蔵品と、国立療養所 菊池恵楓園 絵画クラブ「金陽会」の作品と、彼女自身の作品がガラスケースのなかで並置され、ところどころに動物の糞が置いてある。

後半のスペースでは鴻池の作品が並んでいるが、絵本的なものから、刺繍した布物、環境型のインスタレーション、ごく小さなものから超大型オブジェまで、バリエーション豊か。館内を飛び出して、美術館の裏山まで使った展示になっている。アートとは何か、美術館とは何かを問い直す展示だ。

視覚以外の感覚、触覚や聴覚を動員することを意図的に求める展覧会になっている。チラシによれば、「見えない人・見えにくい人4名、見える人4名がそれぞれペアになって、 手で見て語る鑑賞会」という企画や、「筆談ダンス Dance in Writing」というイベントがあったようで、後者についてはその模様を想起させるような手書きのやりとりが建物入り口そばの壁を覆わんばかりに貼り付けられていた。

ただ、同時に、かなり文字を入れることを求める展覧会でもあったように思う。とくに、物語が付随しているものについては、それを読むことを求められているようでもある。

美術館の所蔵品と金陽会の作品を並列するとき、所蔵品のキャプションは最低限(作者名、作品名、制昨年)だが、金陽会のほうはずっと詳しい。どのような経緯でこのような絵になっているのかの解説がある。

もちろん、どちらも読まなければならないものではないけれど、どう見るべきなのか、どう見てほしいのかと、戸惑ってしまうところはある。

鴻池の作っているもの、少なくともその一部は、蛾の羽の大きな目のような模様の系統に入るように感じた。自然に存在するおどろおどろしさの表象。まちがいなく創作ではあるし、特異なものではあるが、自然の延長にあるようなもの。工業生産物的なものからのインスピレーションではなく、動物的なものに立脚した民話なもの、神話的なもの。人類学的想像力と言ってみてもいい。

だからなのか、彼女の創作は、論理的な演繹ではなく、アナロジー的に展開していくようだ。もちろん、その根底には、現代社会の人工性、人為性、人間による自然の征服といったものにたいする批判的な態度があるはずだ。しかし彼女が創作物のなかで前面に押し出してくるのは、現状を批判的に表象することではなく、現状において欠けているものを仮想的に補完しようという試みであるように思う。民話的なもの、神話的なものの創作。

裏山の手前まではこれまでに行ったことがあったけれど、薬草園の裏までは入ったことがなかった。山道の向こうはかなり急な下り斜面になっていて、竹や木が生い茂っている。光は抜けるし、風は通るので、鬱蒼としているというほどではないが、公園の木立に比べればはるかに非日常的な空間。下り道が異常に急で、少し怖いぐらいだった。