うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20230108 『水星の魔女』12話を視聴

『水星の魔女』12話を視聴。

ジャンルとしての連続性を保証するのは何なのかを考えてしまう。

ガンダム・シリーズのキーとなるのは、当然ながら、ガンダムだ。しかしそれは機体のことなのか、それとも、パイロットのことなのか。機体のスペックのことなのか、それとも、パイロットがその機体で果たしうる役割のことなのか。または、ガンダムが味方や敵軍にたいして持ちうる象徴的な意味——ガンダム神話とでも言いたくなるようなもの——のことなのか。

もちろんそれらすべてをひっくるめてのことだが、では、そのすべての物質的依り代であるガンダム自体は、何をもって、同じ系統の機体であると言えるのか。ファーストを起点に考えると、カラーリング(白と青と赤と黄)と、ヘッドの造形。ビームサーベルとシールド、バックパックに銃やバズーカー。それから、可変構造(コクピットコアファイターになる)。しかし、そのすべてが後のガンダムにおいて踏襲されているわけではない。

『水星の魔女』が2020年代的だと感じるのは、操縦席にスマホのようなデバイスをはめ込むことで機体を起動させるところだろう。また、ガンピットと呼ばれるもの。かつてであればファンネルと呼ばれていた遠隔操作の小型攻撃兵器だが、これはドローン的な感じがする。動きの滑らかさがとくに。

とはいえ、ファンネルはサイコエネルギー的なもの、精神感応波的なものを必要とするものであり、その意味で、どこかオカルトじみた部分があったけれど、『水星の魔女』でも、遠隔操作系のものは操縦者に肉体的心理的負荷を与えるもののようであり、その意味で、ここには、Zから浮上してきた強化人間という主題系を引き継いでいると言える。

親世代との衝突はすでに言及したが、それがかなり生々しいかたちで浮上してきていた。とくに、物語の進行上、はたしてどれほど必要だったのかと勘ぐりたくなるほど、かなり唐突に描き出される親殺し——息子はまったく知らず知らずのうちに父をその手で仕留めてしまう——がある。

そのようなほとんど場当たり的な、理由のない死が、いきなり導入されていたけれど、このような物語の急展開は、ガンダム的な物語の基本であるとも言える。戦争において、誰が生き残り、誰が死ぬか、誰が誰を殺してしまうかは、戦場にいる者たちの自由にできる領域ではない。意図せずして、それどころか、意志に反して、殺すつもりはなかった、殺したくはなかった誰かを殺してしまうことがある。そのようなものとして定義された戦場の現実を描くこと、それを物語のクライマックスにもってくることが、ガンダムガンダムたらしめている重要な特徴だろう。

だから、それまでにさんざん艦隊戦やモビルスーツ戦を繰り広げてきたのに、最後の最後は白兵戦になる。人と人が銃のような旧来的兵器で殺し合う。そこにガンダムの生々しさがある。

1クルーの終わりである12話は、半ばそのようなプロットに雪崩れ込んでいき、あまりに救いのないところで終わった。意図したものであれ、不作為のものであれ、眼前で行われた血の飛び散るような殺人は、それまでに築かれてきた人間関係に修復不可能な傷を残すだろう。殺人を犯した側に(たとえそれが避けられないものだったとしても、正当防衛的なもの、仲間を守るためにそうするしかなかったものだったとしても)、肉体をもむしばむ精神的な爪痕が残るだろう。ここからどうやって2クルー目の話を作っていくのだろう。和解の物語になるのか、分裂の物語になるのか。