うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20230322 「近代の誘惑——日本画の実践」(@静岡県立美術館)を観に行く。

20230322@静岡県立美術館

「近代の誘惑——日本画の実践」は「日本画」というジャンルや概念それ自体を問う、なかなか挑戦的な展覧会だった。日本画は西洋との遭遇のなかで、参照項でもあれば、対峙すべき対象でもある洋画との関係のなかで、自己定義を重ねていったものであるらしい。そしてそれは、必然的に、紆余曲折や多様性を、内部分裂や覇権争いをともなうものでもあった。何が日本画とみなされるか、過去のどの伝統が日本画に連なるものであり、西洋のどの潮流が日本画に取り入れ可能なのか。いわばそのすべてが党派的な闘いにつながっていったかのようであり、そこにさらに、官と民の対立が横たわっていた。

spmoa.shizuoka.shizuoka.jp

ということはとてもよく分かったし、そのような流れに(きわめて意識的なかたちで)先鞭をつけたのがフェノロサ岡倉天心であったというのはよく分かったけれど、その一方で、何が日本画「であった」(過去)のか、何が日本画「である」(現在)のか、そして、さらに根本的な問いとして、何が日本画「となる」(超歴史的な意味で)のかは、最後までよくわからないままでもあった。あえて言うなら、中国から移入した水墨画や人物画の伝統、狩野派のような中世日本以来の伝統、明治前後に始まる洋画との出会いのあいだのせめぎ合いが日本画なるものとして近代の美的政治的文脈において具現化するのだ、という感じだろうか。

それにしてもなぜ「美」術という言葉が定着したのだろうか。日本語で「美術」という言葉が採用されたのは、1873年のウィーン万博への出品を呼びかける太政官布告(1872年)のことであり、それは Kunstgewerbe または Bildende Kunst の訳語であったとのこと。Kunst には、art と同じく「技術」の意味がある。Gewerbe は英語なら trade の意味で、Bildende には Bild(像)や bilden(形成する)の意味がある。だからおそらく、「芸術」のほうが西洋語が意味するところに近かったのではないか。

(脱線になるけれど、「美学」と訳される aesthetics が、語源的には、感性にかんするものであったことにしても、「美」学という訳語によって覆い隠されてしまっている部分が少なからずある。)

近代日本における「美術」は官による序列化と密接に絡み合っていた。官立の美術展は、そもそも、発表の場であるばかりか、受賞による作品や作家の序列化の機会でもあったわけで、それはすなわち、国家権力が美術を育てると同時に飼い慣らす作業でもあったのではないか。

(とはいえ、官が美術を囲い込むのは、たとえばフランスのサロン展のような先例があるわけで、その意味では日本が特殊ということはないけれども、西欧モダニズムがいわばアカデミズムにたいするアンチでありカウンターでありオルタナティヴとして自己を定義していったとしたら、後発である近代日本画は、官の庇護から全面的に逃れるほどには依然として成熟していなかったというべきだろうか。)

日本画を定義するのは、描かれる主題というよりも、描くための媒体や手法による部分が大きいのかもしれないという感じがした。そしてそれは、日本画の展示が、日本家屋の空間設計と分かちがたく結びついたものであるがゆえに、洋画とは異なる様相を帯びるということでもある。巻物は額縁に入った絵とは違う。その最たるものは屏風だろう。まっすぐに展開された屏風絵はきわめて平面的かもしれないが、適切な角度に折り曲げられると、動的なまでの奥行きが生まれる。そして、その巨大なサイズゆえに、また、床にじかに置かれるゆえに、鑑賞のためにはかなり広い、開けた部屋が必要になるだろう。その意味で、日本画は絵単体で成立するものではなく、それが置かれる場を含めての総合的な空間演出と言わなければならないだろう。

鈴木松年の「神武天皇素戔嗚尊図屏風」や「日本武尊素戔嗚尊図屏風」は、細部に至るまで緻密に描きこまれており、全体的にはほの暗いにもかかわらず、画面の内側から発光しているような輝きもある。何より驚きなのは、細部の精密さと、全体のダイナミクスが、折り曲げられた屏風のうえで見事に拮抗しており、静止画であると同時に動画であるように見えてきたところだ。21世紀の目で見ると、どこか漫画的なニュアンスも感じる。たとえば安彦良和のような。いや、というよりも、現代の漫画がこのような図像に連なるものなのだ、と言うべきか。

とはいえ、そのような空間演出がつねに成功していたわけでもないらしい。横山大観の「群青富士」はこの展覧会のビラのど真ん中に配置されており、美術館としては目玉作品ということだったのだと思うけれど、個人的にはいちばんつまらない作品だった。たしかにこの屏風には、巨大なサイズのシンプルな作品しか持ちえない力はあったけれど、どうもピンとこなかった。こちらがこの手の作品の様式感にたいする理解が欠けているせいだとは思う。けれども、それを差し引いても、サイズの利点が今一つ生かされていないように感じた。

jmapps.ne.jp

渡辺省亭「十二ヶ月花鳥図」には、洋画からの影響が如実に感じられる(彼にはフランス滞在経験がある)。細部のリアリズムはきわめて西欧的だ。しかし、その一方で、全体の構図は平面性をキープしており、透視図法は意図的に回避されているように見える。西欧的な技法を取り入れつつ、それを、日本画的な作法に完全に従属させているかのように。

日本画とみなされるかどうかには、色彩感の問題も入ってくるのだろうか。たとえば、尾竹竹坡のインドを題材にとったものはひじょうに淡い色合いで描かれており、かなり独特だけれども、何かとても直感的なところで、日本的な色のグラデーションにあると言いたくなってしまう(彼の絵は漫画家の山岸凉子の描く線を思い起させる)。

考えなしに透視図法を取り入れてしまうと、日本的な主題を、日本的な素材(絵具)や媒体(掛け軸や屏風)を用いながら、西欧的な技法で描いただけのものになってしまうのだろう。だから、日本画のリアリズムは、どこかで様式的な要素——たとえば、装飾的に描かれる草花、画布のなかで雰囲気的にぼやかされる箇所——を温存し続けないわけにはいかないのかもしれない。

1930年にローマで開かれた日本美術展に出品された松岡映丘の「今昔ものがたり伊勢図」は、危ういバランスのうえに成り立っているように感じた。主題はいかにも日本的なものだ。平安時代の貴族が、着物をまとい、御簾の下りた部屋に座っている。重なり合う衣は、平面的な塗りになっているが、背景をなす調度品はどれも平行投影図になっている。奥行きは感じるが、それは、人物の平面性を乱さないようになっている。ここでは洋画の手法によって日本画の根幹を変容させつつ、それでいて、日本画というジャンルを越えないような配慮がなされている。

jmapps.ne.jp

洋画の技法をマスターしながら、それを表面的には封印して、伝統的な主題(中国趣味的な山水画)を超絶技法的に描き切った作品は、なるほど、それ単体としては見事なものだと思うけれど、どこか空しい感じもしてしまう。なぜそれほどの技術を持ちながら、過去の伝統の焼き直し(どれほど洗練されたものであろうとも)に終始してしまうのだろうか、と。