うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

20230331 東海大学海洋博物館の閉館日に足を運ぶ。

東海大学海洋博物館(水族館と海洋研究関連の展示)が今日で一般公開を終了するというので来てみた。予想以上に充実した内容だった。閉館を惜しむ声が多数上がっているのはよくわかる。隣りにある自然史博物館(静岡県の地質的成り立ちと恐竜の展示)はやや劣るが、けっして悪くはない。三保の先端にあり、陸路で行くとかなり距離があるが、対岸まで直で行ける水上バスがある。

生きた魚をじっくり見る機会はそうそうあるものでもないだろう。泳ぐ姿を眺めていると、魚は流体的な生き物なのだという感じがしてくる。ヒレはすべて、薄くしなやか。厚みや硬さを感じさせない。しなるというよりも、海流を受けてうねる。透きとおるように薄い羽衣のように。だからその後にクラゲやタコを見ると、海に生きる命はどれも似たところがあるように思えてくる。

サンゴの華やかな極彩色は哺乳類の想像を軽々と超えてくる。

しかし、狭い水槽のなかを延々と周り続けるのはいったいどのような生なのだろうかとも思ってしまう。なるほど、魚が周遊するのは生まれつきの習性であり、そこには、わたしたちが感じるかもしれない退屈や苦痛は存在しないのかもしれない。だとしても、それを眺めるわたしたちが勝手に感情移入して、勝手に心を痛めてしまうのを止めることはできない。

日常で見かけるのは焼き魚の姿である。だから魚を正面から見ることはない。それをこうして目の当たりにすると、驚かされてしまう。魚が何かわたしたちに近しい存在のように思えてくる。それに、ときおり、魚と目が合っているような気がして、魚の目がこちらの姿を捉えているような気がして、ドギマギしてしまう。

水槽に入れられている魚はかならずしも一種類ではなく、さまざまな組み合わせになっている。それがどういう根拠にもとづくものなのかはよくわからないけれど、魚たちはそこで仲良くやっているようでもある。少なくとも、争ったり、互いを傷つけたりはしていない。充分なエサをもらっているからかもしれない。しかし、理由は何であれ、生物の本質を相争う好戦性とするのは間違っているのだと、あらためて思わされるところ。

自然史博物館の展示で、富士山が今ある姿になったのは、10万年のあいだに起こった何度かの噴火の結果であることを初めて知った。