うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

湯浅博雄『贈与の系譜学』(講談社選書メチエ、2020):西欧キリスト教世界における「贈与の系譜学」?

バタイユブランショレヴィナスのラインで考えればそうなる(ニーチェからモース、そしてヘーゲル)のは当然だが、ネタがわかっている側からすると、このような贈与についての思索には、何番煎じかという印象を抱かざるをえない。それに、キリスト教精神を主軸とするこの論考に色濃くただよう西欧中心主義は、意図的なのかはともかく、現代において問題含みだ。見方としてあまりに狭い。21世紀においてモースを参照するのであれば、グレーバーが『負債論』でやったように、現代の人類学的な知見の系譜学をたどらないのは片手落ちだろう。それに、あきらかにニーチェを想起させる書において、生理学的なものや生物学的なもの(遺伝や進化の問題)――それこそニーチェが参照したものであり、だからこそニーチェのテクストは、哲学というジャンルにとどまらない拡がりや挑発性を持つのだ――を考慮に入れないのも、バランスが悪い。あまり褒められた意味ではなく、本書の考察は哲学的なものにとどまっているように思う。さらに問うてみたい。はたしてここで語られている精神世界を、筆者は、自らのものとして全的にひきうけることができるのだろうか、と。21世紀という時代において、日本という場において。少なくとも自分にはできない。だからすべがどうしてもどこかフィクションのようにしか響かない。贈与の系譜学とは言うが、「西欧(近代)における」という但し書きが抜けている(たしかにマリノフスキやモースを経由して非西欧の事例は参照されるが、それはあくまで彼ら西欧知識人のレンズをとおしてのものでしかないだろう)。とはいえ、贈与は絶対的なものであり、破格なものであるがゆえに、疑似的に、模擬的に生きるしかないというテーゼは、真理を突いているように思う。小見出し以上、要約未満の長さのサブセクションタイトルは、ヨーロッパの哲学書にときおり見られるスタイルだが(ただし、本文余白に脚注のように表記されるものであり、本書のように本文に統合されているわけではない)、Twitter的短文がコミュニケーションの支配的なモードとなりつつある現代において、ふたたび脚光を浴びる可能性もあるかもしれない。