うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

寛容のなかでも譲れない一線:ダグラス・マレー『西洋の自死――移民・アイデンティティ・イスラム』(東洋経済、2018)

人種差別的と思われたくないから人種差別主義者をも受け入れるという倒錯

ミシェル・ウエルベックが『服従』で描き出した問題は、ダグラス・マレーにしてみれば、ヨーロッパの自死の核心にあるものらしい。「左右両方のエリート政治家たちが「人種差別主義者」だと見られまいとするあまり、最悪にして最も急速に膨張する人種差別主義者にへつらい、ついには自分たちの国を手渡してしまう」(432頁)という構図は、ヨーロッパが、近代啓蒙主義的な理念によって自らを切り崩すありさまにほかならない。

これをもうすこし左寄りの視点から言い直せば、次のようになるだろう。寛容であることを旨とするリベラリズムは、自己一貫性を保つために、リベラリズムそれ自体を否定する理念をすら歓待しなければならない。そして、自ら引き入れられた身中の毒によって、リベラリズム自死を遂げるのだ、というシナリオである。 

近代の世俗性と相対性、イスラムの宗教性と絶対性

ここでイスラムという宗教が槍玉にあげられているのは偶然ではない。ヨーロッパの近代啓蒙主義には宗教批判の側面があったし、それが追求してきたのは世俗的な価値観であった。つまりそれは、批判を受け入れない絶対的一者の権威や権力――教会であれ国家であれ――の否定であったし、そのためにこそ、多様な価値観が称揚されたのだった。それはもしかすると、絶対的な権威に依存しないという絶対的な宗教的信念であったのかもしれなかったのだが、それは希薄化され、口当たりのいい文化相対主義に転じてきた。そしてそこから、多信仰主義への距離はほんのわずかであり、多信仰主義を認めれば、旧ヨーロッパ世界にあったのとはべつの絶対的一者が回帰してくることになる。

絶対的な存在を認めず、世俗的な世界を作るはずだった。そのなかに絶対的な存在が密輸入され、密輸入された絶対的な存在が、絶対者のいないはずの世界を下から攪乱するだろう。世俗的な近代ヨーロッパ的理念は、宗教的なイスラム的理念にたいして、あまりに無力である。ヨーロッパは、原理的に言って、自らの価値観をイスラムに強制できない。ヨーロッパはイスラムを自らに「服従」させるというカードを使えないが、イスラムはそのカードを使うことができる。強制できない者と強制できる者が対峙すれば、強制できない者が強制できる者に服従することになるだろう。遠くない未来、ヨーロッパがイスラム服従する、それがウエルベックの小説の筋だったが、ダグラス・マレーが『西洋の自死――移民・アイデンティティ・イスラム』描き出す未来もそれと遠くないものである。

 

文化多元主義を法的なアジェンダとして受け入れることは、ヨーロッパ近代が前提としてきた、法の下での平等という強力な普遍主義の放棄にほかならない。というのも、文化を多様化するということは、宗教と密接に絡んでいる文化をも許容することだからだ。とくに、宗教が政治に優越するというイスラムの文化を、文化多元主義の名のもとに受け入れることは、もはや文化的寛容ではなく、政治的譲歩である。

それは、普遍主義の希薄化にほかならない。いや、希薄化されて例外を認めるようになった普遍主義は、普遍主義の名に値するだろうか。多文化主義から多信仰主義を受け入れてしまえば、近代西欧の左翼的な根源的価値観が崩壊してしまう。マレーはそう言っているように聞こえる。

 

美学的保守主義

では、どうすべきなのか。マレーの立ち位置がよくわからないのだが、保守本流的な価値観を復権させようというわけではなさそうだ。彼がこだわるのは、もうすこしファジーな文化的‐宗教的価値観であるらしい。

欧州の「未来」のために、欧州の「過去」をポジティヴに奪還したがっている。かつての帝国主義植民地主義の暴虐さだけに欧州の過去を還元したがらない。そうした罪悪感や良心の呵責から、欧州を解放したいのだ。

我々の危機への解決策はまた、未来に対する前向きな態度だけではなく、過去に対するバランスの取れた態度を伴うものになるだろう。ある社会が自らのルーツを日常的に抑圧したり、それと戦っていたりしたのでは、生き残ることは不可能だ。自らの過去を批判することを一切許さない国家が繁栄できないのと同様、自らの過去を肯定することをことごとく抑止する国家も生き残ってはいけない。欧州が自らの過去に疲労感や消耗感を覚えるのは理由のないことではないが、過去と向き合う際には自らを責める気持ちと同じだけ、自らを許す気持ちを持っていい。少なくとも欧州は過去の痛みだけではなく、過去の栄光ともつながりを維持する必要がある。(463‐64頁) 

マレーは欧州の罪深さを全否定する修正主義者ではないが、そうした負の側面をとりあえず脇に置いて、別の側面を見たがっている。他者になした罪を、他者を差し置いて、自ら許すことが、はたして可能なのかという疑問はあるし、そこで立ち止まろうとしないマレーに、被害者意識を振りかざす加害者の傲慢さを感じてしまうところでもあるが、ここで焦点化したいのは、彼が「過去の栄光」というフレーズで何を言おうとしているかだ。

引用を続けよう。

欧州の未来はおおむね、この地に受け継がれてきた教会の建物や、偉大な文化的建造物に対する我々の態度で決まるだろう……楽しさだけを売り物にする社会は、急速に魅力を喪失しかねない。ナイトクラブを出たあとに宗旨替えをした人々は、楽しいことを体験したうえで、それでは不十分だと悟ったのだ。我が社会を特徴づけるのはもっぱらバーとナイトクラブ、放縦と権利者意識だと語るような社会は、深い根を持つとは言えず、生き残る可能性は低い。一方、我が社会は大聖堂や劇場、スタジアムやショッピングモール、そしてシェークスピアからなると考える社会には、一定の可能性がある。(464、465頁)

マレーのビジョンは微妙に混乱している(もし翻訳が間違っていないのであれば、だが)。一方において、偉大な宗教的遺産(大聖堂)や文化的遺産(シェイクスピア)が称揚され、他方において、近代消費主義の権化であるようなショッピングモールがリストに含まれる。それでいて、マレーはバーやナイトクラブのような享楽の場をこきおろす。

彼のスタンスは、政治的保守というよりも、文化的保守ないしは美学的宗教と呼んだほうが妥当かも知れない。20世前半のイギリスにおいてまさにそのような存在であったT・S・エリオットのパジェント劇『岩』のコーラス「だれも良くある必要がないくらいに完璧なシステムを夢みる dreaming of systems so perfect that no one will need to be good」をマレーが唐突に引用しているのも、そう考えれば腑に落ちる。20世紀初頭の後期ロマン音楽に示すアンビバレンスや、20世紀のアヴァンギャルドモダニズムポストモダニズムに向ける否定的評価も、筋が通っている。

第一次世界大戦よりも以前から、欧州の――特にドイツのーー美術と音楽には、円熟から爛熟へ、さらには何か別のものへと変わっていく系譜が存在した。グスタフ・マーラーリヒャルト・シュトラウスグスタフ・クリムトらに代表されるオーストリアとドイツのロマン派の最後の系譜は、そこからは完全な瓦解以外は何も生まれない円熟の極みに到達したことによって、自壊したように思える。それは単に彼らが死という主題に固執していたということではない。彼らの芸術は、それ以上引き伸ばしたり、より一層の革新を加えたりすれば、折れてしまったように感じられるのだ。そしてモダニズムポストモダニズムの中で、実際に折れた。それ以来、欧州の――特にドイツの――芸術は、その爆発から生まれた残骸の中に存在することによってのみ、成功が可能だった気がする。それ以外の出口は誰も見つけることができなかったのだ。(418‐19頁)

 

マレーが試みようとしているのは、近代以前から続くヨーロッパとつながることなのだ。そしてそれは、ヨーロッパにとっての宗教の問題である。ヨーロッパにとっても、宗教は本質的な物語であり、それはキリスト教のことであるらしい。マレーによれば、ヨーロッパは小さな村や町の集積であり、そこでは、教会がコミュニティの中心であり続けてきたという。

もちろん、ヨーロッパにおいてキリスト教の価値は、19世紀以来、漸進的に低下してきた。デヴィッド・シュトラウスやエルネスト・ルナンのような実証的聖書学は、キリスト教が歴史にすぎず、超越的でもなければ超自然的でもないことを暴露してきたとはいえ、宗教に後光があったことは否定しがたいようであるし、そうした超越性にたいする希求は決して息絶えることはなかったようでもある。実際、宗教が衰えつつあった19世紀後半、芸術が宗教にとって代わろうという野心を抱いた。『パルジファル』を書いたワーグナーのように。

マレーが思い浮かべているのは、そうした宗教的文化の再興によるヨーロッパ的価値観=文化=生活形態の生存なのだろう。

 

反エリートな大衆の声

興味深いのは、マレーが、ヨーロッパの自死を招いたエリート主義から距離を置き、自らを、大衆のほうに近づけていることだ。というのも、20世紀初頭において文化的保守主義を掲げたエリートたちは、ほぼ例外なく大衆侮蔑的であったからだ。その始祖ともいうべきはフリードリヒ・ニーチェであろうし、もしかするとエドマンド・バークにまでさかのぼることができるのかもしれないが、20世紀の文脈なら、オスヴァルド・シュペングラーやオルテガ・イ・ガセットに言及しないわけにはいかない。

マレーが大衆を代弁しているかのような語り方をするとき、それをある程度までは疑ってみるべきだ。彼は実際の事例をふんだんに提示するが、同時に、まるで「大衆」の心情とチャネリングしているかのように、大衆の直感や本能を語り出す。それはマレーが本当に大衆の側から語っているからなのか、それとも大衆の声を詐称するデマゴーグだからなのか、そこを疑ってかかる必要があると思うのだ。

エリートはきれいごとを言うが、一般大衆はそんなものを望んでなどいない、というのが、この手の本で繰り返される「ホンネ」だからだ。腹の底では、内臓から考えれば、だれもが異質なものを直感的に拒むのだ、という論法は、もっともらしいものでもあるし、それを裏付けるような具体例をマレーはあれもこれもと数え上げる。もし脊髄反射的憎悪があるとしたら、それは具体的な出来事によって強化され、文化的‐宗教的他者に向けられるだろう。そうならないと思うほうが、ナイーブなのかもしれない。

たとえば、大衆が拒んでいたのは、「移民たちImmigrants」ではなく、「移民現象Immigration」である、と述べるときである(458頁)。大衆は個人としての移民とはうまく付き合おうとしたけれど、移民という現象が、自分たちの社会や文化を根底から覆してしまうことに警戒心を抱いてきたにもかかわらず、エリートたちはその不安を真剣に取り合おうとはしなかった、とマレーは大衆を代弁し、エリートに抵抗し、ヒロイックに真実の警鐘を鳴らしているかのようである。

大衆の直感なのか、マレーの独断なのかはともかく、多様性が失敗したという意見には否定しがたい真実が含まれている。社会はそこまで急速に変わりえるものではない。共同体は根源的なところで保守的であり、もしかすると、それは、生物的な要請なのかもしれない。それを文化的に上書きしてみようとしても、どこかで限界に達してしまう。

多様になることが不可能なのではない。多様になるには、遅さ(スピード)と長さ(タイム)がいる。多様性そのものが無茶だったというよりも、急速に短期間で多様になろうとしたところに、無理があったのだ、と言うべきかもしれないし、その意味では、マレーが難民認定プロセスにおけるずさんなファクトチェック(またはその事実上の不在)を問題視しているのは、当然だろう。

 

どうすればよかったのか、どうすればいいのか

マレーは移民を締め出すことが答えであると言っているわけではないようだ。むしろ彼がほのめかしているのは、ヨーロッパ的価値観を譲り渡すことなく、吸収可能な数の移民をヨーロッパに統合することであるようにも聞こえる。実際、彼がメルケルの失敗と呼ぶのは、彼女の下した移民歓待という方向性そのものではなく、そのやり方のほうである。「困っている人々に慈悲を示しながら、一方で欧州の大衆に対する正義を通すこともできた」(451頁)というのが、マレーの論点なのだ。

とはいえ、そうした正義を通すための拠り所をどこに求めるのか。 

 

こうした本で、脱構築をはじめとするポストモダンポスト構造主義思想が槍玉にあがるのは、もはや様式美といって差し支えないと思うのだが、知的洗練化――批判者はそれを遊戯化と呼ぶだろう――が、価値判断を高度に複雑なものにしてしまったのは事実だろう。脱構築は、肯定するやいなや否定が作動するような、オンとオフを同時に入れるような、矛盾したゲームだ。

ただし、ここで強調しておくべきは、矛盾しているのは脱構築のほうではなく現実そのものであるという点である。脱構築はその意味では錯綜的な現実にもっとも忠実な思考であるのだけれど、ジャック・ラカンの「現実なるものThe Real」がそうであるように、現実そのものはアクセス不可能であるからこそ、わたしたちはそれをどうにかコントロール可能にするための嘘――ルイ・アルチュセールが「イデオロギー」と呼んだもの――を必要とする。脱構築はそうした嘘を許容しない厳しさに充ちている。その厳しさに耐えられるのは、おそらく、そのための特別の訓練を積んだ知的マゾヒストだけだろう。

もし脱構築に既存の道徳を切り崩す効果があるとしたら、それは、自らの信念の拠り所を精査することなく盲目的に信じることを疑問視することによって、信じることの根元を揺るがしてしまうところにある。脱構築はまっすぐな信念の基盤を切り崩す。その結果、単純なまでに強固な宗教的情熱を胸に秘めた人々と対峙すると、知的洗練者は無能な存在になってしまう。 

 

しかし、何があっても、そこを譲るわけにはいかないのだ、というのがマレーの論点だ。寛容でありながら、絶対的なラインは譲らない。受け入れつつ、相手をこちらの大原則に服従させる。なぜなら、大原則レベルでの共存はありえないからだ。そのレベルでは、「あれか、これか」の相互に排他的な二択になるからだ。そこを譲れると思ったところに、リベラルな政治家/エリートの思い違いがあった。それがマレーの議論の核心にある。

これを左派的に言い換えると、どうなるか。リベラリズム啓蒙主義という「宗教」が必要なのか? 世界を脱‐魔術化する、それがマックス・ウェーバーの啓蒙の定義だったし、世界を再‐魔術化しようとするファシズムの神話にたいしてフランクフルト学派たちは再度の脱‐魔術化批判の刃を向けた。しかし、いまわたしたちが掲げるべきは、ベネディクト16世の「神が存在するかのように」行動せよという欧州人にたいする懇願(465頁)に近いものなのかもしれない。

脱‐魔術化の批判性をキープしたまま、そこに世俗的なもの以上の何かを付与するために、「世界を再‐魔術化する」(シルヴィア・フェデリーチ)という、自意識的に反実仮想的な「かのように as if/comme si/ als ob」のプロジェクトである。