うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

生物学的真実と社会学的現実の衝突:池上英子『自閉症という知性』(NHK出版、2019)

自閉圏の人びとのユニークな感性と知性

もし自閉症的なもの――「自閉圏のautistic」と著者が呼ぶもの――がスペクトラム的なものであり、欠損や欠如ではなく、差異でありグラデーションのように連続的なものであるとしたら、それはたしかに「認知特性」と考えるべきだろう。「正常」に矯正しようとか「正常」に適応させようと考えるよりは、そうした特性にもっともフィットする在り方を模索するほうがいい。自閉症を個性として、ある知性のかたちとして捉えなおすというのが、『自閉症という知性』を貫く著者のスタンスである。

自閉圏の人たちはかなり違った感覚感性をもっており、そうしたインプットにもとづいて、かなり異なった内面世界を築いている。時間感覚も空間感覚もそうだ。神経過敏、感覚過敏というのは、もしかすると、適切な言い方ではないのではないかという気すらしてくる。それは「健常者」の感覚インプット量を「ノーマル」と見なし、それをを上回るものを「過剰」とすることであるし、そうした「過剰」は「無駄」と同一視されてしまいかねない。

しかし、その過剰なまでに豊饒な感覚与件のなかに、自閉圏の人びとは独特の美や歓びを感じているし、それとうまく折り合いをつけたり、それをうまく表現するための独自のメディアを発展させたりする。というのも、感覚データの奔流――細部からべつの細部へと移ろっていったり、目の前にあるものから想像や記憶の世界のなかに飛び出していったり、ウチとソトがつながって自分がモノそのものに(それどころが自分が悦ばしく感じている美そのものに)なってしまったり――は、単線的な時間経過や因果律的な論理関係には収まりきらないものだからだ。

お茶をたてると泡が立ちますね。茶碗のなかの泡の一つ一つに景色が映る。それが本当に美しいのです。お茶の泡は、ただ透明な泡に景色が映っているのではなく、一つ一つの小さな泡は私には虹色に輝いて見えます。虹色の泡に景色が映っています(虹色というのは、泡がピンクや青に光っている)。泡の大きさによってもそれぞれに違う美しさを持っていて、少し大きめの泡は映っている景色と虹色が美しく、景色が映らないほど小さな泡は星のようにキラキラ屋らしく光っています……お茶の緑色からは、私には淡い色の綺麗なお茶畑が見えて、優しい緩やかな音楽が聞こえます。お茶の緑色には感触もあって、「柔らかいわた」の感触です。お茶の泡の世界からは、星空が見えてきます。時には、自然の草木の音や優しい虫の声などの音も感じることもあります。/お点前に集中すると、こんなことを次々に体験することもあり、感覚的にはとても忙しい「強烈」な体験ですが、この強烈な体験は私には良い体験です。(231-32頁) 

 

近代社会が要求する標準化、資本主義が要求する交換可能な労働力

しかし、現在の社会のなかでは、自閉圏の人びとがさまざまなかたちで、さまざまな濃度や密度で持ち合わせているこうした「異質な」感覚受容や内面世界は、うまく使えない。それは、近代社会が標準化を前提に組みたてられているからだろう。

その最たるものは教育である。言語や論理的思考を優先する教育法、集団行動、時間割、標準化されたテストによる成績付け、それらは、視覚優位だったり、流動的な時間感覚の持ち主だったりする自閉圏の人びとからすると、うまく馴染めないどころか、まったく敵対的なものですらあるのかもしれない。

突き詰めていけば、こうした標準化の根底には、近代的な資本主義の要求があるのだろう。交換可能で効率的な労働力という要求である。そのために、独自の感覚世界の持ち主のようなイレギュラーは、単に排除されるか、強制的に矯正されなければならないことになる。自閉圏の人びとにしてみれば、資本主義的な社会の求めるような「歯車」になることほど難しく苦痛なこともないだろう。それは、複雑で豊饒な自分の世界をあえて否定することである。インタビュー対象のひとりが語る言葉を使えば、「アスペルガーのわたし独自の認知世界を離脱」(157頁)することである。

現代社会において生き延びるには、働いて金を稼がねばならない。それは、自らを、賃金に換算可能な労働力に転じることである。これは自閉圏内にいる人にも、圏外にいる人にも、等しく当てはまる。そのために払わねばならない代償は、圏内の人びとのほうが圧倒的に大きい。しかし、どちらの人びとも、自らを労働力に転化するために自らの感性や知性の独自性を犠牲にしている点では同じだ。これを程度の違いと言い切ってしまうのは、自閉圏の人びとが払わなければならいものの大きさを過小に見積もることになりかねないが、この重要な共通の問題を見逃すわけにはいかない。

ここで考えるべきは、ニューロダイバーシティーという<生物学的真実>と、標準化を規範とする<社会学的現実>の衝突だ。効率性のためにある程度の標準化が必要だというのは、現代社会のような大規模な共同体においては、必然的なことではあるが、その必然性のために、どこまで個々の独自性や特異性を矯正することが許容されるのか。この点を根底から考え直すのでなければ、自閉圏の人びとの「受け入れ」は、最良の場合でも、寛容で辛抱強い心ある人びとの「善意の行為」に終わってしまうだろう。

標準化と効率化を、生産と消費を前提とする社会を根本から考え直し、個性や瞑想、美的なモノづくりやマインドフルネスを基盤とする共同的な生き方を模索するのでなければ、自閉圏の人びとは、結局のところ、例外的に受け入れられるだけの存在以上にはなりえないだろう。ニューロダイバーシティーを考えること、それは、標準化を旨とする学校教育や社会制度を考え直すことである。

 

自閉圏の感性や知性のユニークさと凡庸さ

ニューロダイバーシティーがあるということと、独自の感覚世界が築かれることと、独自の表現様式が編み出されることのあいだには、微妙なギャップがあるのではないかという気もする。ニューロダイバーシティーがあることは否定しがたい生物学的与件だが、それが独自の感覚世界へとうまく展開されるかは個人差があるようだし、内面世界を表現できるかどうかどうかとなると、自閉症に限らないまったく別の問題が入ってくるように思う。

本書でインタビュー対象となっている4人は、ヴァーチャルリアリティにおけるアバターだったり、漫画だったり、音楽だったり、非言語的な表現メディアを活用することで、自らの内面体験を外在化する方法を作り上げることに成功している。しかし、ここで思うのは、この4人は幸福な成功例であって、この4人の背後には、そこまでたどり着かなかった多くの自閉圏の人びとがいるのではないか、そしてそうした人びとのほうが多数派ではないのか、という疑問だ。

自分にもっともフィットする表現メディアを探り当て、そのメディアの文法や語彙を注意深く丹念に学び取り、独自の表現方法を試し、オリジナルなものに昇華させていくというのは、時間のかかるプロセスである。なるほど、天才と言われる人々はそれを一足飛びに越えていくことができるのかもしれないが、自閉圏の人がみなそのような存在なのだろうか。自閉圏外のケースを考えると、どうもそうは思われない。というのも、これらは実験と実践によって少しずつ培われていくものであって、直感的に一挙に獲得されるようなものではないからだ。

著者が述べるように、過去の科学者や芸術家には、自閉圏の人びとの感性や知性の事例に相当するものが多数ある。優れた視覚的な記憶を持っていたチャールズ・ダーウィン、自閉圏的な世界と自閉圏外の世界のあいだのギャップを描き出したルイス・キャロルやエミリー・ディキンソン、共感覚的な認知を文学へと昇華させた宮沢賢治アンディ・ウォーホルフランツ・リストアルチュール・ランボーなど、共感覚的な持ち主がたどりついた芸術的達成は素晴らしいものである。

しかし、自閉圏の人びとがみなデフォルトで創造的であるというわけではないだろう。なるほど、自閉圏の人びとの使うイマージュは独特で、ハッとさせられるものかもしれないが、それは純真な子どもの言葉が哲学的で、無垢な子どもの言葉が詩的なのと同じような理由ではないかという気もする。「深い知識や沢山の読書で鍛えられた知性とは違うが、その代わりにどこかから借りてきた思考や表現はない」、「自分の感覚を深く見つめて出てきた言葉」(228頁)というのは、そのとおりだろう。しかし、だとすればますます、自閉圏にいるある人の語る言葉の強度は、その人だけのものであって、自閉圏の人一般に当てはまるものではないだろう。

 

自閉圏「だから」でも、自閉圏「にもかかわらず」でもなく

もし自閉圏の人「だから」素晴らしいと言うのは、拙速な一般化である。しかし、もし自閉圏の人「にもかかわらず」素晴らしいと言うのは、そういう物言いをする人の偏見(「自閉圏の人は一般に素晴らしくないはずなのにもかかわらず、ある特定の自閉圏の人は素晴らしい」)を曝け出すにすぎないし、結局のところ一般化を免れていないどころか、個人崇拝という過ちさえも犯している。

直感的なもの、直接的なもの、反省的でないものは、面白いかもしれないし、面白くないかもしれない。要するに、偶然的なものにすぎないのだ。この本を読むと、自閉圏の人びとが自らの世界を大事に大事に作り上げてきたこに心を動かされるが、その絶え間ない地道な努力、歓びもあれば苦しみもあった長く困難なプロセスを思うと、「ある」こと以上に重要な「なる」ことの意義は、どれだけ強調しても強調したりない。

偶然の産物を称えることが悪いわけではないが、それを過剰に称賛することは、ユニークに「なる」ことよりも、ユニークで「ある」ことのほうを強調しすぎることだ。ありのままを抱きしめることが重要なのは言うまでもない。しかし、それだけで充分なのか。「ある」を前面に出しすぎると、グラデーション的な連続性が少しずつ意味を失い、本質主義が回帰し、自閉症が「特殊」なものとして再隔離されかねない。ナイーブさが天使化されかねない。 

もし障碍がスペクトラム的なものであり、「健常」と地続きであるなら、障碍者も健常者も同様に凡庸な存在でありうる。どちらにとっても、独自の存在になることは、直感やインスピレーションによって一息に成し遂げられるものではなく、プロセスとして持続的に取り組むことで初めて可能になる息の長いものである。

自閉圏的知性や感性を認めるということ、それはおそらく、自閉圏的凡庸さをも認めることになるのだと思う。自閉圏的な感じ方や表し方の「あたりまえさ」や「ありきたりさ」が、物珍しさとか風変りさというようなものから完全に解放されたかたちで広く受け入れるようになるとき、自閉症が知性の普通のかたちの一種として受け入れられるようになるだろう。