うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

サドとヘルダーリンとベンヤミン:三島由紀夫『春の雪』

「なぜなら、すべて神聖なものは夢や思ひ出と同じ要素から成立ち、時間や空間によつてわれわれと隔てられてゐるものが、現前してゐることの奇蹟だからです。しかもそれら三つは、いづれも手で触れることのできない点でも共通してゐます。手で触れることのできたものから、一歩遠ざかると、もうそれは神聖なものになり、奇蹟になり、ありえないようやうな美しいものになる。事物にはすべて神聖さが具はつてゐるのに、われわれの指が触れるから、それは汚濁になつてしまふ。われわれ人間はふしぎな存在ですね。指で触れるかぎりのものを潰し、しかも自分のなかには、神聖なものになりうる素質を持つてゐるんですから」三島由紀夫『春の雪』

サドとヘルダーリンベンヤミンを混ぜ合わせたかのようなこの一節は、三島の美学的マニフェストでもれば、政治的マニフェストでもあり、倒錯的な近代批判として読める箇所ではないか。

唯物主義の彼岸(「手で触れることのできないもの」)にある神聖なものを称揚することによって、卑俗なる此岸は神聖なる彼岸の下位に位置付けられることになる。それは観念論的、精神主義的なスタンスだろう。

しかし、わたしたちの「いまここ」から隔てられたもの(夢や思い出のようなもの)が、「いまここ」に立ち現れることの奇蹟な美しさを謳い上げたそのすぐ後で、そのような奇蹟の冒涜(指で触れて汚すこと)があたりまえのように起こることが述べられる。そして、それにたいして表明される感情は、怒りではなく、驚きなのだ。不敬が断罪されるのではない。汚濁行為を、あたかも自然な摂理であるかのように、異論も反論もなしに、受け入れる。

神聖なものを、わたしたちから隔絶したものの奇蹟的な訪れと捉えるこの一節には、宗教的な畏怖の感覚が強く表れている。しかし、「神聖なものになりうる素質」がわたしたちのなかにつねにすでに宿っていると見なす点において、わたしたちがみな神的なものに化身しうる可能性を秘めていると信じる点において、この世界の人々すべてが神聖なものに転化するという奇蹟、現実的にはまずまちがいなく不可能ではあるけれど、可能性としては絶対にありえないわけではない世界を夢想するという点において、強烈な平等主義と普遍主義が、ここでは表明されているとも言える。神聖なものをヒエラルキーの上位に置きつつ、そこに至る可能性は万人に付与しているのだから。

神聖なるものの確かな手ざわりを、神聖なるものの現出それ自体ではなく、現出している神聖なるものの冒涜行為のなかに捉えようとしたところに、三島の美学的袋小路があったのではないか。崩壊のなかでしか存在を実感できないとしたら、それは悲劇にしかならないのではないか。

三島のなかで、涜神行為がそれ自体として神聖なものであったのかどうかはよくわからないけれど、冒涜の只中では、冒涜する側とされる側の両方が、神聖なるものに触れることになるのではないかという気がする。冒涜する側は、神聖なるものを汚していく行為のなかで、そのような行為によって神聖なるものが汚されるのを目撃することによって。される側は、神聖なるものが自らのうちで汚されていくことを感じることによって。神聖なるものの手ざわりを感じることが目的であれば、SでもMでも、究極的にはどちらでもいいということになるのかもしれない。