うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

効率性と意味充実にたいする反旗:千葉雅也『意味がない無意味』  (河出書房新社、2018)

効率性と意味充実にたいする反旗、それが千葉のプロジェクトの概要だろう。効率的にやること、それは出発点と着地点を最短距離で結ぶというモデルであり、そのためには能動性と自発性を主軸に据えた主体が必要とされる。しかし、そうした主体は、他を暴力的に扱うだろう。カント的な言い方をすれば、他を手段としてのみ使い、目的としては捉えないということだ。千葉がここで念頭に置いているのは、そうした主知主義的で自己中心的な主体を裏返したようなものである。わたしたちは受動性を生きる、千葉の主張を一言でまとめるなら、そうなるかもしれない。

 

ボディビル、プロレス 

末尾に置かれたボディビル論(「単純素朴な暴力について」)とプロレス論(「力の放課後――プロレス試論」)はとても短い文章だが、そこには千葉の議論の核心がある。

徹底的に筋肉中心の世界。それは、一種の脱主体化を引き起こしているように思われた。ボディビルダーは筋肉にその主体性を乗っ取られている。筋肉は「他者」だ。胎児のようでもある。エイリアンとしての胎児、としての筋肉を、人工的方法によって妊娠している――僕にまっさきに思い浮かぶのは、そういう女性的なイメージなのだ。(281頁)

何かが間違っている気がする。ボディビルにいそしむ(おそらくは異性愛者の)男性たちをツイッターでフォローして彼らの日常の思いを読んでいると、「素朴に」強くなりたいと信じているようでもある。『ドラゴンボール』の「サイヤ人」がそのイメージとして挙げられもする。サイヤ人になる、生粋の戦闘民族の。ボディビルに関する先の考察が正しいならば、彼らは自分を誤認していることになる。実はあれは徹底的な受動化であるのに……。(282頁)

能動的、主体的、男性的であるように見える自分の筋肉のビルドアップは、実は、もっとも受動的で、脱主体的で、女性的である、と千葉は言う。千葉はこれと同じような分析をギャル男にも加えている。 

ギャル男は、マチズモへの反省もなく女ウケに腐心するうちに、逆説的なことに、マチズモの実質をくり抜いて形骸化させ、分離主義的なる女性に似たものへと変身するかのようである……(96‐97頁)*1

この受動性、そして受動性ゆえの非効率性にこそ、現代の効率至上主義で結果至上主義のグローバル資本主義とは別の可能性があると千葉は考えているらしい。だからこそ、プロレスはわたしたちに夢を与えてくれるのだ。 

プロスポーツは]勝つために「効率性」を研ぐというシンプルな論理に依拠している。対して、プロレスラーの不敵な睨みと笑みには、「贅沢」が含まれている。すなわち、プロレスラーの時空は効率的でありすぎることがないのだ。効率性一辺倒ではない。プロレスの魅力は、雑多な要素が「装飾的」な複合をなしていることである。(283頁)

プロレスは「やんちゃな男の子」(285頁)への回帰、いや、「男女の別が曖昧であった状況への回帰」(288頁)であり、無駄遣いのような力の溢れと戯れる贅沢である。しかし、溢れだす力に身を任せることは自己破壊をもたらしかねない危険な行為でもある。この「恐怖と魅惑」が入り混じった「力の溢れ」を、協同的に、儀礼的に演じること、それがプロレスである。

勝ち負けという結果が重要なのではなく、それに至る過程が重要なのだ。それはもしかすると、サドマゾ的な緊張関係なのかもしれない。殺しては快楽が途絶えてしまう、しかし踏み外さなければ快楽は得られない。死には向かいつつ、生に留まることであり、自己破壊のヴァリエーションを試し尽くしたあとに立ち現れる贅沢である。 

プロレスにおいて正味の部分は、相手を打ち負かすことではない。正味の部分は、自滅に踏み込んでしまうその手前へと漸近していく、ぎりぎりの自己破壊の競演である(凶器攻撃や場外乱闘もまた、たんに威圧的であるよりもむしろ、名誉をどこまで失えるかというマゾヒスティックな自己破壊の一種である)。その果てに最終的な勝敗がある。プロレスにおいて相手に与えるダメージは、自己破壊の附随効果なのであり、それは、勢いよく「石塀」に登りかかればその「石塀」にダメージを与えてしまうことに等しい。対戦相手はつまり「石塀」なのだ。かつ、自分もまた相手にとっての「石塀」になる。(286頁) 

力の溢れは、特別でも特殊でもない。わたしたちの日常の経験であり、わたしたちの幼少期の体験である。なるほど、それはもしかすると日常のなかでいつも発せられている「ノイズ」のようなものかもしれないし、そうした「ノイズ」を抑圧することによってわたしたちは平静な日常生活を営んでいるのかもしれない。しかし、裏を返せば、プロレスが儀礼的に上演する協同的な自己破壊の競演は、日常と地続きなのだ。プロレスは異質な別世界への飛躍ではなく、「「別のいまここ」へのジャンプ」(289頁)である。 

プロレスラーは、抑圧の(実はひじょうに不安定な)バリアの手前へと回帰することを、つまり、みみっちい生存競争的現実の手前へと、我々の「かつてあった近いところ」へと、近所へと、近所の石塀や校庭や河川敷へと、そこを踏み台にして成長してしまったあのあらゆる経験が自己破壊的である子供の弱さのただなかに回帰することを、その全身で呼びかける。(287頁)

 

身体の有限性

ここで重要になってくるのは身体だ。身体は有限である。しかしこの有限性はネガティヴな限定ではなく、ポジティヴな可能性なのだと千葉は言う。身体という有限性がなければ、わたしたちは無限の可能性に圧倒されてしまう。 

我々が無限の多義性に溺れることなく行為できるのは、身体を持つからだ。(34頁)

カント的啓蒙の主体の理想は自律性にある。他者から指導も強要もされることなく、(自らの)理性を自らの意志で自由に行使すること、それがカント的な認識と行為のモデルだが、それを成立させるには、純度100%の自律性の主体が必要になってくる。これは精神のレベルにおいては構想可能かもしれないが、身体のレベルにおいては不可能である。現代的な言い方をすれば、バーチャルリアリティにおいてはいかなるパラメーター設定も理論的には可能であるが、ベタな現実においては持って生まれた肉体の可塑性には限界がある、ということだ。なるほど、たしかに現代において肉体はある程度まで可塑的なものではあるし、もしかするとこれからますます可塑的なものになり、精神の自画像のほうに肉体が作り変えられるという状況がデフォルトになるのかもしれない(攻殻機動隊のような電脳と義体の世界)。しかし、すくなくとも現時点においては、この身体というものは有限性の具現化であり、わたしたちに自らの有限性を思い出させ、思い知らせるものである。

わたしたち(のココロ)は無限に可塑的でありたいと思うかもしれない、しかしわたしたちのカラダはつねにすでにあれこれのカタチを与えられ、あれこれのカタにはめられ、あれこれのリミットを持っている。そしてそれは、わたしたちが自らに課したものというよりは――もしそうであれば、それは結局のところ、自律性の変種にすぎないだろう、わたしは自ら望んで自分の自律性を限定するが、その限定はわたしが望むときはいつでも外すことができる、というのでは――、わたしたちに課せられたものである。わたしたちの身体は、有限性の具現化であると同時に、わたしたちの受動性の証左でもある。

にもかかわらず、わたしたちはその受動性があたかも存在しないかのように振る舞う。男に能動性を、女に受動性を割り振る、白人に能動性を、非白人に能動性を割り当てるのは古典的なレパートリーである。古典的な二項対立はほぼつねにヒエラルキー的だが、そこでの序列制の構築のために、能動性と受動性というペアが採用されるわけだ。能動性はある集団の特権的独占物であり、それ以外には与えられていない、ということになる。別の言い方をすれば、能動性こそが目指されるべき規範であり、好ましい倫理的価値であるとされるわけだ。千葉のプロジェクトとは、この俺様主義的能動性(無限に自由な可塑性)こそが虚構の産物であり、受動性(有限の(不)自由)こそがデフォルトの状態であると規定することにあるように思われる。

 

現代世界という文脈における存在論の倫理性

ここで興味深いのは、千葉がこうした存在論的な規定(受動的有限性の具体化である身体をもつ)から、接続過剰な現代世界――または、複数の事実=世界が林立し、絶対的な真理の単数的な基準が存在せず、複数の互いに異質な自明性が存在するポスト・トゥルースの世界(32頁)――における批判的倫理を引きだしている点かもしれない。 

他者と共存するとは、豹変するかもしれない、裏切るかもしれない身体=形態と隣り合う不安に耐えることである。それこそが倫理・政治のゼロ度ではないだろうか。そこから建設的な関係が始まるかもしれないし、それが分断と闘争の原理でもある、両義劇なゼロ度……。(29頁)  

他律性を哲学的原理に据えるという戦略は、ある意味では、すでにスタンダードなものだ。19世紀末から20世紀初頭にかけて、フロイトはすでに、わたしたちが意識の主人ではなく、無意識の虜囚であることを明らかにしてきたし、精神分析という文脈に立てば、どのような流派――フロイト派、ラカン派、クライン派、オブジェクト・リレーション派――に与するのであれ、意識が最終的な決定審級でないことは自明である。千葉が本書でラカンに何度も言及するのはまったく妥当だし、デリダラカン路線と言っていいのかもしれない東浩紀がひとつの参照点になっているのも、80年代以降の日本現代思想に通じている読者にすれば、よくわかる話だ。

存在そのものSeinを存在者Seiendの上に置くハイデガー存在論にしても、他が自よりも先行するというレヴィナスの他者論にしても、カント‐ヘーゲル的な自律‐無限論に相対するものではなかったか。そしてヘーゲル研究者から出発したジュディス・バトラーは『自分自身を説明することGiving an Account of Oneself』(原著2005、邦訳2008)において、レヴィナスデリダ的他律論を引き受けながら、自己のパフォーマティヴな構築の自由と不自由のはざまから、ある種の倫理を打ち立てようとした。わたしたちはたしかにジェンダーを自由に演じることはできるが、その自由はつねにカッコつきのものである、パフォーマンスをするわたしはすでにある特定の伝統や文脈をある程度まで引き継いでいるいるし、それを受け取る相手もまたある特定の伝統や文脈を受け継いでいる以上、パフォーマンスは決してわたしの思ったようには進まない、「わたし」は「わたしでないもの」を排除することはできない、気に入ろうが入らなかろうが、「わたし」は「わたし」と「わたしでないもの」の混淆なのだ、自分のなかにある/まざってくる他なるものを引き受けることなしには、わたしたちは何かに応える/責任を果たすRespons-ableことなどできない、わたしたちが目指すべきは、他律というごちゃごちゃしたデフォルト状態から自律という他者無視の純粋状態に至ることではなく、わたしたちの存在論的な多元性や不自由性そのものを倫理的な可能性へと転化することである、と。

身体の強調について言えば、バトラー以降のフェミニズムジェンダースタディーズ(やさまざまな隣接領域)においてずいぶんなされてきているはずだ(たとえばバトラーのBodies that Matter(1993))。だから、この意味では、千葉の試みは異端であるというよりは、このラインの思考の王道にあるように感じられる。ただ、たしかに、この他律性、受動性、身体という問題系を現代の文化的状況と繋げ、そこから倫理的含意のある存在論を構築するという試みは、オリジナルなところがある。

 

思弁的実在論実在論vs唯名論ポストモダン以降の構造主義? 

千葉は自らの哲学を存在論と規定し、そこから、思弁的実在論 Speculative Realism

(メイヤスー)や対象志向存在論 Object Oriented Ontology(ハーマン)を補助線としながら、意味の問題に取り組む。千葉によれば、思弁的実在論とは相関主義 correlationalism(わたしたちは、認識者とモノのあいだの関係について考える事しかできないとするカント以降の現象学的立場)との批判であり、事物それ自体 things in themselvesをダイレクトに考えようとする立場であるという。

SR周辺では、私たち=人間の思考から切り離された事物それ自体(things in themselves)について、また世界それ自体について、絶対的にしかじかであると思考し、述定できるという立場を示している。私たちの考え方しだいで別様に事物・世界が現れるというのではなく、即自的なものについて何かを思考できるとするのである。(139頁)

そのときの千葉の議論は、どこか(唯名論と対立する意味での)実在論の匂いがする。構造主義的、本質主義的、と言ってもいい。

乱暴かつ極論的にまとめれば、両者の対立は、モノを優先するか、ヒトを優先するかである。

実在論に立てば、本質は事象に内在している。唯名論に立てば、本質は事象にとって外在的なものである。

実在論に立てば、誰がどこでどう認識するかは関係ない。唯名論に立てば、誰がどこでどう認識するかは大問題である。

実在論に立てば、意味は世界に内在している、たとえわたしたちにはその意味の全貌がつかめないとしても、それはすでにそこにある。唯名論に立てば、意味はわたしたちが作り出すものであり、わたしたちにとって意義があるものである。

実在論は人間中心主義ではないし、それどころか、人間を必要としない(または人間もまた実在するものののひとつ、One of themでしかない)。唯名論は人間中心主義である。

実在論は神学的な方向を含んでいるだろう(それがキリスト教的な神であるか、構造主義的な大文字の構造であるか、ラカン的な大文字の他者であるかはさておき)。唯名論相対主義的な傾向を持つ(あるものがどういう意味や意義を持つかは、時代や文脈や立場がちがえば、大きく異なってしまう)。

実在論は普遍性を志向するがゆえに、近代科学的な方向や工学的な方向をも含んでいるだろう(近代科学の反証可能性とは、実験者に依存しないということである、誰がどこでやっても同じ結果が出る、というのが近代科学の科学性の大原則であるし、それはまさに、事物には人間と無関係な本質があるということでもある)。唯名論はコンセンサスのほうに向かうだろうし、それは、人文学のような解釈の知=学問や政治のような権力の問題を引きこむだろう。

実在論は近代的/構造主義的であり存在論的である。唯名論ポスト構造主義的/ポストモダン的であり認識論的である。

もちろんこのまとめはあまりに乱暴だ。しかし、思弁的実在論はいわば、ポスト構造主義ポストモダンの「後(ポスト)」において、構造主義的なところに前進していく(戻るのではなく))のだ、というふうに見るべきなのかもしれない。思弁的実在論において必然(論理的なもの)ではなく絶対(存在論的なもの)が重要なパラメーターであること、メイヤスーにおける絶対的なものが数学であるというのも、その意味では示唆的かもしれない。絶対的に存在するものはあるが、それは何かウェットなものではなく、純粋に抽象的なものであり、しかし、「構造」ほどガッチリとした体系ではない。超構造主義的ではあるが、それは、ポスト構造主義相対主義をくぐり抜けたことによって初めて引き出されるような絶対であるらしいから。

 

「意味のない無意味」は存在論的なのか? 

わたしの疑問は、千葉の言う「意味のない無意味」(「我々を言葉少なにさせ、絶句へと至らせる無意味」(12頁))というのは、本当に存在論的なカテゴリーなのか、という点だ。

上記の実在論唯名論の対立のさせ方が「乱暴」なのは、極論だからだ。これは二項対立ではなく、グラデーション的に繋げて考えるべきものである。ただし、これは中庸が真理であるという月並みなことを言いたいのではない。そうではなくて、意味Meaningの問題(実在論存在論にとっての問題)を、意義Significanceの問題(唯名論や認識論にとっての問題)と完全に独立させたかたちで問うことに果たして意味があるのか、ということを問いたいからだ。というよりも、ここで千葉が「我々」と書いているところからしても、意味の問題が「対自的」なものであることがほのめかされているのではないのか。千葉はある箇所で「予測を越えた」とか、「あらゆる他者は、なにをするかわからない者なのだ」と述べる(29頁)。しかし、それは誰/何にとって予測外なのか。予測とは認識者に属するものではないのか。

この意味で、千葉がフーコーについてほとんど沈黙していることは、きわめて不可解であると同時に、まったく妥当な戦略的選択であるように感じられる。それはもしかすると、千葉のドゥルーズ論がドゥルーズニーチェ論を回避しているという問題とパラレルなのかもしれない。

さらに付け加えるなら、カントにおける自律/他律問題は、最初から社会的側面に開かれていたことを忘れるべきではないだろう。「啓蒙とは何か」の冒頭で、自律的な理性の行使を称揚しておきながら、同じテクストの後半では、理性を使うべきところと使わなくてもいいところをカントは区別していた。人類全体のために語ることができる場合は、ひるむことなく理性を使うべきである。しかし、ある集団のひとりとして語る場合は(たとえば教会という組織に属する司祭として、国家の一員である公務員として)、集団が要請することに従って、理性の行使を加減すべきである、と。カントにおいて、他律性は哲学的な問題であると同時に、きわめて政治的な問題であった。千葉において、他律性の問題は身体の問題と接続されるが、それが政治的なものとは直接に結ばれないのは、千葉がある特定の哲学的伝統(フランス的? 大陸的?)を選んでいるからだろう。西洋哲学の伝統の部分的かつ選択的な採用について、千葉がどこまで意識的であるのか、つまり「哲学そのもの」というよりは、「ある特定の」哲学ジャンルの「ある特定の」伝統を選んでいる(そしてそうすることで、その他の可能性を取り上げていない)ことに、千葉はどれほど意識的なのだろうか。千葉の選択が有限的であることを批判しているのではなく――千葉の哲学は、メイヤスーの書名にあるように、まさに「有限性のあと」にあるものだから――有限であることの自己意識の濃淡の問題である。

千葉の哲学があまりに抽象的すぎるとか、概念の遊戯に陥っているとか、政治的な含意に無頓着すぎるという批判は不当だろう。哲学を政治的にやる権利が認められるように、哲学を哲学的にやる権利も認められるべきである。こちらが期待するようにやっていないからといって相手を非難するのは、つまるところ、相手をコントロールしたいという欲望の投影でしかない。それはまさに千葉が批判するものだ。自分の受動性を隠蔽することで自己を能動的であると言い張るロジックだ。

人間中心主義批判は急務である。気候変動を考えるにしても、エコクリティシズム Ecocriticismを考えるにしても、人新世 the Anthropoceneを考えるにしても、もはやわたしたちは人間を中心に考えることはできない。その意味では、認識主体としての人間を必要としない/中心に置かない思弁的実在論は有効であるし、人間に依拠しない思考モードの形成は重要である。きわめて皮肉な言い方をすれば、千葉の理論的な組み合わせ(ドゥルーズ、思弁的実在論ラカン精神分析)はこのトレンドと非常にうまくマッチしており、千葉の哲学的嗅覚の鋭さは見事である。しかし、物事の意味、何/誰にとって意味があるのかということになると、存在論をはみ出す価値論の問題が出てくるのではないか。

モノがどうあるのか。それは非人称的に考えることができるかもしれない。しかし、モノが何を意味するのか/意味しないのかと考え始めた途端、モノの世界の住人は急増していくだろう。あるモノとべつのモノの関係、あるモノがべつのモノに及ぼす影響関係、あるモノがべつのモノをべつものに変えてしまう可能性、あるモノにとってはコレのほうがアレより重要であるという優先関係。そうなってくれば、モノをただ並列的だとか水平的に考えることはできなくなる。序列の問題、ヒエラルキーの問題、選択や決定の問題(アレかコレか)、時間や歴史の問題が入ってくる。要するに、知をどうするのかというプラグマティックな問題が出てくるはずだ。

千葉が本書冒頭で述べている自己規定を引用してみよう。 

哲学にも色々な分野があるが、私の専門は、人間や事物が「どのように在るか」の原理的考察、すなわち「存在論ontology」である。それはひじょうに抽象性の高い考察だ。その一方で私は、様々な具体的対象について――自分自身の無意識との向き合いという意味も込めて――批評を書いてきた。批評とは何だろうか。それは、何か具体的な「他なる」ものによって自分を揺さぶられる、という危機的な経験ではないだろうか。(6頁) 

千葉の哲学に「わたし」はいらないが、千葉の批評は「わたし」の言葉である。千葉の批評がパーソナルであると言いたいわけではない。千葉は批評において、自身が規定する哲学的関心とはべつの興味を持っているのではないか、と問いかけてみたいのだ。

千葉の思考にプラグマティズムが欠けているというのではない。ふんだんにある。問題は、千葉の哲学的側面(ドゥルーズ、思弁的実在論精神分析)と、批評的側面(ギャル男、プロレス)が、うまく接続されていないのではないか、という点だ。哲学が実在論で批評が意味論であるというわけではない。千葉の分析においては両者を接続しようという努力はつねになされている。しかし、千葉がエッセイの筆を自由に走らせるほどに、彼の文章は自身の哲学的な規定から逃走していくようにも感じられる。

 

理論過剰、理論解説、理論武装 

端的に言おう。千葉の批評的エッセイはひじょうに面白い。ギャル男論やボディビル論やプロレス論はすばらしい。しかしそこにドゥルーズだとか思弁的実在論だとか精神分析の「理論解説」を混ぜ込む必要が果たしてあるのかどうか。ニューアカ以降――浅田彰以降、と言ってもいい――海外思想を手際よくチャート化することが知的卓越さの証のような空気が批評空間界隈にただよっていたと思う。しかし、東浩紀も千葉雅也も、チャート作り屋としての手腕はいまひとつだ。しかしそれは彼らの弱点ではない。浅田の凄さが鋭さにあったとしたら、千葉の凄さはそれとは別の種類のものだからだ。願わくば、浅田や東のスタイル(考え方においても書き方においても)ではなく、別のスタイルを探って欲しいと思う。

 

ちょうどよい切断?

もう1点。いかにして儀礼的な空間を創出するのか。プロレスが自己破壊のヴァリエーションの競演でありながら、自己破壊という悲劇的結末に至らないのは、それがジャンル化されたものだからだろう。大澤真幸はどこかで千葉のドゥルーズ論に言及しながら、どうすればちょうどよい接続切断がわかるのか、と疑問を呈していた。接続切断はつねにシンギュラーなものであり、だからこそ、それは法則化できない。つねに一回性の行為であり、最適解はひとりひとり異なるだろう。接続切断が出来事だとすれば、そこには必然も絶対もありえない。

プロレスが自己破壊の手前でとどまることができるのは、プロレスに実在する必然や絶対の賜物なのか。そうではないだろう。それはプロレスラーの身体の強度、興行、観客といったパラメーターのなか、時間をかけて調整されてきた可変的なものだろう。だからこそ流動的なところがあり、これから先の世界で変わっていかない保証はない。いや、必ず変わっていくはずだ。マクロで見れば同じレンジのなかに留まるかもしれないが、ミクロで見れば細かな異動があるだろう。そしてそれはまさに予測不可能なものである。

儀礼を安定化するには、ただ列席し、共体験するだけでは不充分だ。絶対に制度的なものの介入があるだろう。権力の問題が混ざってくるし、異質な自明性のパラダイムヘゲモニー的な闘争が起こるだろう。そこで出現するのは、ニーチェ的、グラムシ的、フーコー的な力の世界ではないだろうか。ドゥルーズガタリ的な用語を使うなら、脱領土化の領土化(接続切断)だけではなく、再領土化の(脱)領土化(接続切断から開けてくる儀礼の可能性、ジャンプ先にある「別のいまここ」の流動的な恒常化)をも、千葉の哲学は思考していく必要があるのではないか。

*1:ただし千葉はこの分析はあまりにレトリカルであり、ギャル男はやはり男性中心主義的、女性嫌悪的、同性愛恐怖的であるとも述べている。