John Holloway, In, Against, and Beyond Capitalism: The San Francisco Lectures. PM Press. 2016.
わたしたちは犠牲者ではない、それが尊厳についての重要なポイントであることは間違いありません。尊厳について話すとき、わたしたちは「ちがう、そうじゃない、わたしたちは犠牲者なんかじゃない」と言っているのです。犠牲者であることからは始めるはやめましょう。もしわたしたちが自分を犠牲者だと考えるなら、わたしたちはすでに負けています。もしこの世を支配の世界だと捉えるところから始めるなら、わたしたちの出発点は、犠牲者としての自分、支配関係を帯びた存在としての自分になってしまいます。これは間違っています。わたしたちは犠牲者ではないし、貧しいわけでもありません……反抗するのは、わたしたちが貧しいせいではない。わたしたちが豊かだから、わたしたちが自らのうちに、何にでもなれる可能性を秘めた創造性という豊かさを、あふれんばかりに持ち合わせているからです……わたしたちは名詞ではありません。わたしたちは実は動詞なのです。わたしたちは動くもの、成すもの、「ある者human being」ではなく「なす者human doing」です。わたしたちは動詞です。
We are not victims, that is surely the important point about dignity. When we talk about dignity we are saying no, no way are we victims; we will not start from being victims. If we think of ourselves as being victims, then we are lost. If we start from a world of domination then we start by defining ourselves as victims, as being the bearers of the relations of domination. And it's not that. We are not victims, and We are not poor either...It is not because we are poor that we rebel, it is because we are rich, because we have in us the enormous richness of undefined creativity...We are not nouns. We are actually verbs. We are movings, We are doings, We are human doings, We are verbs. (6, 30-31, 33)
「わたしたち We」から始めること。「こちらがわ」から始めること。ホロウェイがこの3回連続講義で繰り返し主張しているのはそれだ。資本であれ、支配であれ、「問題」のほうから始めることは、その問題に悩まされるわたしたちを客体的なものにすることにほかならない。そしてそれは「プロレタリア」のような伝統的概念についても同様だ。
なぜ反抗するのか。反抗を正当化する論理はあるのか。
反抗を反応 REactionとしてしまえば、受動的 Passiveになってしまう。反動 Reactionaryを呼びこんでしまうかもしれないし、ルサンチマン Ressentimentを喚起してしまうかもしれない。
「犠牲者だから」、「貧しいから」という論理では、わたしたちはなにかが欠けていることになってしまう。
欠けている、だから欲しいという Want/Need論理では、「わたしたち」は「持たざる者 Have-nots」となり、「わたしたち」ほうに(も)問題があるという説明を引きいれてしまう。そして、わたしたち自身を責めることになってしまう(「うまくいっていないのは、○○していない自分が悪いんだ」)。
それではいけない。能動的 Activeでなければならない(ドゥルーズは短いニーチェ論のなかで、責任転嫁の段階論をやっていたが――自分が悪い、相手が悪い、運命が悪い、だれも悪くない、だったか?――議論としてはそれと通底する部分があると思う)。
「わたしたちは尊厳 Dignityだ」。わたしたちはゆたか Richだ、とホロウェイは繰り返す。わたしたちが尊厳であるということ、それは、誰かや何かのおかげではない。法律が保証してくれるからでも、人権思想の恩恵でもなく、わたしたちはつねにすでに、もとから、尊厳なのだ。尊厳、それはわたしたちの本源的な創造性である。
わたしたちが反抗するのは、何かが欠けているわけではなく、すでに持っているもの、わたしたちが正当な権利として当然に持っている尊厳が攻撃にさらされているからだ。わたしたちの尊厳が脅かされている。わたしたちの尊厳が怒りにふるえている。それが反抗の根拠だ。
なるほど、ここには依然として「取り戻す」という受動的なモメントがあるのかもしれないが、尊厳は、踏みにじられようと、けなされようと、奪い取られるものではない。尊厳は傷つけられたかたちでわたしたちのところにあり続ける。そしてだからこそ、傷つけれた尊厳は怒りを覚え、自らにふさわしい尊厳ある状態に戻ろうとするのだ。
わたしたちが反抗する理由は完全に内在的で自発的だ。わたしたちは反抗する、なぜならわたしたちはわたしたちであるからだ。反抗はトートロジー的であるが、それは反抗が何ら外在的な要因を必要としないからだ。
わたしたちは、わたしたち自身の尊厳の否定に抗う、反抗する尊厳だ。わたしたちは尊厳ある怒りだ。
We are dignity in revolt against the negation of our own dignity. We are dignified rage, digna rabia.(51)
わたしたちが価値を作り出している。ホロウェイは素朴な労働価値論者であるようにも聞こえる。実際、ホロウェイはマルクスが『資本論』(だったと思うが)で論じる、生産のために社会的に必要とされる労働量によって商品価格が決まる、という議論を反復しているように見えなくもない。もしかすると、ホロウェイ自身、ある程度まで字義的に理解している部分があるのかもしれないが、重要なのは、ここにはさらに深い意味もあるということだ。
労働が価値の源泉である、それは統計的だとか数量的には論証しがたいテーゼかもしれないが、比喩的には正しいものであるように思う。わたしたちは創造し、制作する。そうしたわたしたちの営為が、モノに価値を作り出す。わたしたちの働きなしには、価値は生まれない。わたしたちは、すでに、わたしたちの手中に、革命のための原動力を持っている。
わたしたちは抵抗する。自ら望んで、意識的に、意図的に抵抗するだけではない。なるほど、従属することを積極的に拒むのは、特殊なことかもしれない。デモに行く、集会に出る、などなど、そういう行為は、ある特定の人たちだけがやることかもしれない。
しかし、ホロウェイが言うのは、そうした積極的な反従属 Insubordinationと並んで、非積極的な非従属 Nonsubordinationがあるということだ。そして、非積極的な非従属は「普通 Ordinary」のことである。
なぜわたしたちは抵抗するのか。それは、わたしたちと資本のあいだにつねにミスマッチ Misfitが発生するからである。資本はつねに変容する。資本はつねに加速し、つねに効率化を求める。もっと速く、もっと多く、というわけだ。10年前と今とでは、同じものを作るのでも、それに必要な労働時間や労働労力はまったく異なるだろう。現在のほうがはるかに容易になっているだろう。
しかし、このようにして資本が絶えず変転していくとしても、わたしたちはその倦むことをしらない急転直下の運動に完全についていくことはできない。「ついていけない」「おいていかれる」というのは、現在のネオリベラル的な流動的でノマド的な労働環境にあっては、労働者の「自己責任論」として片付けられてしまうところかもしれない。「悪いのはお前だ、お前の労働力を時代の要請に合わせてアップデートできていないお前が悪い」というように。
なぜわたしたちは、自分たちのやりたいように、自分たちが望むように、自分たちが正しいと思うようにやることができないのか。なぜわたしたちは言われたことを、言われたとおりにやらなければならないのか。
「気がすすまない」という気分がすでに、わたしたちの抵抗が始まっていることを告げている。ホロウェイはいくつかの抵抗のかたちを分節しているのだと言ってもいい。1)積極的な拒否=抵抗=反従属、2)非積極的な非従属。そして2A)「できない」という能力的なところからくるもの、2B)「気がすすまない」という気分的なところからくるもの――これはドゥルーズとアガンベンがメルヴィルの中短編『バートルビー』から引き出したI prefer not toに近いだろう――、2C)「なにかほかにやりたいことがあるのに」という、1ほど強い拒絶ではないが、2Bよりは提案的であるような、弱いユートピア的思考/願望。
わたしたちは動詞であり、名詞ではない。わたしたちは動くものであり、成すものであって、あるものではない。資本はつねに速度を上げ、効率を高めようとする。
しかし、ここには速度や程度の違いがある。だから、ふたつの動的な論理は必然的に衝突し、矛盾が生まれる。資本はみずからの自己再生産のために、結束を強めようとする。資本のスピードについていけない/ついていきたくない/ついていきたいわけではないわたしたちは、資本の強制するダイナミクスから決定的にズレる。
わたしたちは決して資本の論理にフィットしない。そしてこのミスマッチ、ミスフィットは、わたしたちが意志的に望んだ結果という側面もあるけれど、それはまさに、わたしたちが尊厳だからである。
ミスフィットしようと思ってミスフィットするのではない。わたしたちが尊厳であろうとするならば、わたしたちがわたしたちであろうとするならば、必然的に、わたしたちは資本の論理にフィットしないのだ。
わたしたちは資本の論理、わたしたちを単なる労働力に代えようとする論理に抗う。それは要するに、わたしたちが、労働力に還元されないなにかもっとゆたかなものだからだ。わたしたちは労働力ではある。しかし、それより重要なのは、わたしたちは労働力以外のなにかであること、わたしたちは労働力以上のなにかであるという点だ。
わたしたちは資本の論理に亀裂 Crackを入れる。わたしたちは多様な存在である。だからわたしたちは自分が望むこと、自分が必要だと思うことをやりたいと思うし、それをやる。
些細なことかもしれない。庭を作ったり、野菜を育てたり、人と会ったり、集まりを組織したり。しかし、わたしたちはこの世界のなかで、すでに、なにかべつの実践をしている。
それが「普通 Ordinary」のことなのだ。抵抗することは特殊ではない。資本の論理と完全にはフィットするものなどいない。わたしたちは必ずズレし、ズレからそれをどうにかしようとする。
しかしそこで、資本の論理のほうを向くのは自殺行為だ。それは、資本に「もっとうまくやってください、そうすればそこまでズレないですみます」とお願いするようなものだから。
わたしたちは別の方向に歩いていくべきだ。しかし、どちらにせよ、フィットしないことは誰にも起こりうることで、誰もが抵抗する理由を本質的かつ内在的に持ち合わせている。
これを抵抗運動の論理や倫理に翻訳するとどうなるか。ひとつは、エリート主義や前衛主義の無効化である。「我々は特別だ、我々についてこない奴らは間違っている」という考え方は、「わたしたち」の連続性や多様性を自ら投げ捨てることだ。「わたしたちは抵抗する、それはわたしたちが特殊な集団だからではなく、まったく普通の人々であるから、まったく普通に尊厳ある存在だからだ」と考えなければならない。
もしわたしたちが自分のことをそのように考えないなら、もしわたしたちがそのような連続性という観点で考えないとしたら――つまり、わたしたちはアクティヴィストではあるのですが、わたしたちのアクティヴィズムは単に氷山の一角にすぎない、別の言い方をすれば、わたしたちのアクティヴィズムは社会全体に流れている非服従の地下水脈の一部にすぎないわけです――もしわたしたちはそういうふうに考えないとしたら、そこには大きな危険があります。わたしたちが最初に批判しようとしたはずであった前衛主義を再生産してしまうという危険です。
Unless we think of ourselves in that way, unless we think of it in terms of that sort of continuity--that we are activists but our activism is simply the tip of an iceberg, or our activism is part of a subterranean stream of nonsubordination that runs through the whole of society--unelss we think of it that way, then there is a great danger that we reproduce the vanguardism that we had probably started off by criticizing. (58-59)
ふたつめは、既存の権力奪取を目指さないということだ。国家であれ資本であれ、それらの論理は、わたしたちの尊厳にたいする一方的で暴力的な制限であり、限定となる。わたしたちはいまある制度をもっとうまく運営したいわけではない。それでは、「わたしたちをもっとうまく支配してくれ」と願うことにしかならない。
みっつめは、いまのシステムをべつのシステムで置き換えるというような方向をとるべきではないということだ。わたしたちは動くものであり、作るものであり、成すものである。わたしたちは変わりゆくものである。わたしたちは動詞である。そんなわたしたちを名詞的なシステム、固定的で断定的で限定的なものに嵌めることはできない。わたしたちはべつの可能性を探るべきであるし、そうしたべつの可能性がすでに実践されているところ――亀裂 Crack――から考えるべきだ。
よっつめは、わたしたちに「答え」はいまだないと認めることだ。サパティスタが言うように、「考えながら歩く」べきなのだ。亀裂はすでにある、しかしその亀裂は全体を置き換えるほど大きくはないし、そもそも置き換えるという発想が間違っている。
答えはわからない、でもこうしたい、ああしたいという考えや思いはある。そこから始めよう。わたしたちはすでにそこから始めている。「We have already begun」(66)。
サンフランシスコで2013年に行われた3夜連続講義の原稿そのままという感じで、かなり繰り返しが多い。2回目3回目の講義の冒頭で、前回前々回の内容をまとめているので、最後の1回を読めばホロウェイの議論の全貌は理解できるが、本書の魅力は、内容そのものというよりも、語り口にある。
ここで求められているのは理論的厳密さではないだろう。ホロウェイが何度か引用しているサパティスタのモットーにあるように、「考えながら/尋ねながら歩く」をそのまま実践したような講義なのだ。聴衆とホロウェイが「わたしたち」であり、その「わたしたち」を、講義を聞きにきたアクティヴィストにも、聞きにこなかった人々にも等しく開いていくような、資本や支配の論理に抗う「ミスフィット Misft」や「亀裂 Crack」が、すでに、わたしたちの日常生活のなかでいたるところにあることを明らかにしていくような言葉のパフォーマンスなのだ。
ホロウェイの議論の前提にサパティスタの実践があることは明白だが、同時に、ここにはいくつかの思想的背景もある。ひとつはイタリアのアウトノミズム系マルクス主義であり、もうひとつはラ・ボエシの『自発的非服従論』であり、名指されてはいないが、もうひとつはフーコーの「批判とは何か」だろう。ボエシが手放しで絶賛されるのにたいして、アウトノミズムには一定の留保がつけられている。それはある意味、アウトノミズム系のアントニオ・ネグリにたいするホロウェイの距離感でもある。
しかし、現代日本の文脈でホロウェイを読む場合に考えるべきは、そうした理論的系譜ではなく、ホロウェイがここで前提としてる「亀裂」がどこまで日本にすでに走っているのかという点を考えるべきだろう。
ホロウェイは「この世は亀裂で一杯だ the world is full of cracks」(40)と言うが、果たしてそうだろうか。「わたしたちが望ましいとか必要だとか考えることをする経験」が果たしてわたしたちの日常生活に遍在しているだろうか。
ホロウェイは「自律Autonomy」を追い求めすぎることを批判している。というのも、それは現実との断絶を夢見ることであるからでもあるし、囲い込んだ空間を閉じた全体性へと転化してしまうからでもある。
わたしたちは徹底的に連続的かつ開放的に歩いていくべきである、それがホロウェイの提案であり、それはそのとおりだと思うものの、「わたしたち We」で考えるあまり、「わたし I」が希薄化しているようにも思う。共同体主義的 Communitarianであるあまり、個人主義 Individualism的なものがそれに吸収されてしまっているようにも感じられる。
もちろん、この Weの選択は、Themにたいしてなされたものである。「むこうがわ」(客体/対象)からではなく、「こちらがわ」(主体)から始めるためのものであることはわかっているが、Themを退けることによってIがWeに呑みこまれてしまったきらいはある。
でも、これは元気をくれる本だ。