うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

かわいいは正義:熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス、2020)

いささかの誇張を込めて言うなら、現代東京、ひいては現代日本において「かわいいは正義」なのである。「かわいい」は誰にでも愛される、繁華街でも閑静な住宅地でも通用するコンセプトであり、地方自治体が好んで用いることが示しているように、安全で無害な、安心できる存在とみなされている。他方、「かわいくない」存在、つまり人々に不安や不信を思い起させる存在は歓迎されず、迷惑で、不道徳であるとすらみなされかねない。

 リスクを思い起こさせない「かわいい」外見であること、臭いや外観で他人に迷惑をかける心配がないこと、無害で受け入れやすいことは、この美しい街の景観に溶け込むのに適しているだけでなく、個と個がせめぎあう側面や干渉しあう側面をぎりぎりまで削り取った自由、東京風の自由のありかたとも合致している。社会の慣習や通念や自由のありかたに合致しているからこそ、「かわいい」は実際、日本社会においてどこまでも正しい。かわいくあろうと努める人々、またはリスクを想起させない存在であろうと努める人々によって、この街の慣習や通念、自由のありかたはますます方向づけられ、強化され、清潔になりゆく街並みとともに日本ならではの秩序を形づくっている。(181-82頁) 

均質な労働力を、不均質な個々の人間から作り出すには、個々人を枠にはめ、規律化するしかないが、それが不可能であることは明白だ。しかし、現代日本では、そのような規律化、ある種のモデルーー健康的で清潔で道徳的な人間——を前提としたアーキテクチャ型権力が、社会の隅々にまで及んでいる。それになじめない、そこから零れ落ちる、そこに参加できない層が生まれてしまう。そうした不適応者(しかし、それは、そうした層の内在的な無能力のせいというよりも、社会が前提とする能力バランスのせいである)をどうするのか。それが熊代亨の問題意識の根底にあるらしい。

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精神科医として働く熊代は、さまざまなカテゴリーの医学化(発達障害など)を必ずしも肯定的に捉えていないような部分があるのかもしれない。レッテルを付けることがいけないからではなく、そのようにカテゴライズする/されることは、そのように同定され、そのように扱われることを既定路線化することであり、それもまた、あらたな規律化、あらたなアーキテクチャ化である。フレームに収まることを要求することである。はたしてそれでいいのか。

問題をさらに悪化させるのは、地域共同体の崩壊によって、個々人がすべての管理責任(子どもや老親含めて)を担わなければならなくなった現代の契約社会の構造だ。個人の自由の最大化は、責任の増大と不即不離である。こう言ってみてもいい。そのような重荷に耐えることができるのは、責任のいくらかを金で外注できる経済富裕層か、または、依然として親類や地域に助けを求めることができる層であり、そのどちらにも当てはまらない中間層こそが、もっとも困ることになる。現代における契約社会化と資本主義化の行き着く先は、すべてのコスト思考化である。コスト削減、コストパフォーマンスの向上が、人生の目的にすり替わってしまう。

わたしたちを飼い慣らすことで可能になった健康で文化的な生活は、はたして善なるものなのか。わたしたちはいったい何のために生きているのか、と改めて問い直してみなければならない。いまここにあるシステムに適応すること、適応してつつがなく長生きすることが、生きる目的であり、生きる意味なのか。

そんなことはないだろう。しかし、では熊代が、そこから逸脱してリスクをとるというリスキーな道を推しているのかというと、そういうわけでもないだろう。ただ、情報が統計的に処理され、さまざまなエビデンスが示されるなか、みずから「誤った」道を選ぶ自由はあるのか、とは問いかけているようだ。

西欧社会よりも日本の方がネオリベのリスクにさらされているという熊代の指摘は正しいはずだ。個人主義と民主主義が根付いている西欧では、長い時間をかけて、さまざまな問題(たとえば少子化を補うために、家庭という単位にとどまらない子育てのかたちを作り上げてきたフランス)にたいする処方箋を社会的アーキテクチャとして発展させてきたという議論は、ややざっくりしすぎではないかという気もするが、日本が準備不足、態度不足であることは否めない。

わたしたちは、環境的にも心理的にも、現代社会の掟に従うようにナッジされている。

とりわけ東京のような、あらゆる場所が人工的で、資本主義と社会契約のしるしに覆い尽くされた街では、街そのものが環境管理型権力として機能し、街そのものが規律訓練型権力としても機能している。すべてがコードで設計されたインターネットに比べれば隙間はあると言えるけれども、従来の町村部に比べれば隙間はずっと少ない」(230‐31頁)

ではどうするのか。いまから時間をかけてその準備を進めるのか。それとも、別のアーキテクチャを作るのか。しかしそれは、別の環境管理型権力を生み出すだけではないのか。そんな疑問もわいてくる。

無臭化、無毒化され、他人に迷惑をかけないことを金科玉条とする現代社会が生きづらさを生んでいることは間違いない。しかし、それをふたたび異臭化し、有毒化し、アウトローがはびこるような世界に巻き戻すわけにはいかない。獲得された自由を保持したまま、生み出された不自由を削減していくような、アクロバティックな道を探していかなければならない。それが、わたしたちの現在の課題である。