うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

「欲望を高貴にする」:ロラン・バルト講義集成『いかにしてともに生きるか』、『〈中性〉について』、『小説の準備』(筑摩書房、2006)

小説は世界を愛する、なぜならそれは世界をかき混ぜbrasser、抱擁するembrasserからだ。(『小説の準備』、19781209、25頁)

 

文学的な人

ロラン・バルトはやはり深く深く文学的な人だったのだと思わされる。書くこと、書き物のなかの生の可能性、それを追求したのではないか。彼はもちろん概念と戯れるけれど、それはむしろフィギュールと遊ぶためであり、その言葉や表現、意味や含意との終わることのない、終わるはずのない意味作用の逃走にこそ、バルトの快楽があるように感じた。

バルトが1976年から1980年にかけてコレージュ・ド・フランスで行った4年の講義――「いかにしてともに生きるか Comment vivre ensemble」、「〈中性〉について Le neutre」、「小説の準備 La Préparation du roman」I、II――については、録音も、バルトの講義スクリプトも、メモも、かなりの材料が残っているようだが、出版されたのは、講義でバルトが語ったことの忠実な書き取りではなく、彼自身が準備した講義スクリプトと録音のハイブリットのようだ。そのせいか、全体にわたって矢印やコロンが多用されていたり、省略的なかたちで典拠が記されていたりと、若干読みにくい部分もあるが、読んでいるうちに慣れてくる。

 

「自分の名において語る」

ここでのバルトは、網羅的であることを執拗に求めてはいない。包括的に見えるリストは提出されるし、その項目が深く探求されもするけれど、それは問題追及のための手段であって、目的そのものではない。だとすれば、わたしたちもまた、彼のテクストにたいして、彼が先行テクストにたいして行ったのと同じ態度でのぞんでよいのではないか。折衷的に、つまみ食い的に、気ままに読むこと。

バルトのなかに絶対的なモデルとなる作者がいるわけではないように思う。なるほど、プルースト、ジッド、フローベールバルザックマラルメカフカ、そしてちょっと変わったところではトルストイのように、繰り返し参照される作家はいる。しかし、それは明確な参照項として、参照先のありかを明示するための目じるしのようなものであって、バルトが完全に入れ込んでいる、入れ込んでいるがゆえに彼の声を模倣しながら、それを透かして自分の声を響かせるというドゥルーズ的な自由間接話法的な腹話術を試みたりはしない。

バルトのなかではさまざまな声が響き渡るけれど、それを反響させるフレームワークとなるのはバルトその人であり、彼は徹頭徹尾、彼の声で語る。彼の声は自らのファンタスムを起点/基点にして語る。それはきわめてパーソナルな営為であり、その意味では、彼は哲学的言説のある種の非人称性からもっとも遠いところにある。バルトは、彼自身の名においてでなければ、語る意味や語る意義を見いだせなかったのではないか。

私は自分の名において語るのであって、科学の代わりに語るのではない。私は自分自身に問いかけるつもりだ、文学を愛する私自身に→この小さな片隅、それこそがまさに〈書く欲望〉なのである。(『小説の準備』、19791201、221頁)

 

共存しないものを共存させる

中性の問題にしても共生の問題にしても、バルトの核心にあるのは、論理的には矛盾でしかないものを共存させること、というよりも、そうした共存が小説においては、小説的エクリチュールにおいてはすでに起こっていることにたいする感嘆であり、讃美であるように思う。そして願わくば、彼もまた、そうした共生のエクリチュールの書き手となることだ。

バルトにしてみれば、目指すべきは、矛盾しているように一般に思われているものの共生であり、その視点から彼は、『いかにしてともに生きるか』で、ユートピア思想に連なるテクストを再読していく。

フーリエにおいてファランステールのファンタスムは、逆説的なことに、孤独の抑圧ではなく、孤独への好みを出発点とするのである。「私は一人でいるのが好きだ。」ファンタスムとは反=否定ではないし、その裏にフラストレーションの経験を秘めているわけでもない。複数の幸福なヴィジョンは相矛盾することなく共存しうる。ファンタスム、すなわち絶対的にポジティヴなシナリオ。ファンタスムが舞台にかけるのは欲望のポジティヴな部分であり、ファンタスムはポジティヴなものしか知らないのだ。要するにファンタスムは弁証法的ではない(あたりまえのこと!)。ファンタスム的には、孤独に生きることと、ともに生きることを同時に望むのは矛盾ではない=私たちの講義。(バルト『いかにしてともに生きるか』、講義集成1、19770112、7‐8頁)

バルトを読む醍醐味はまちがいなく、体系性ではなく、彼が端々で披露する明察のほうにある。たとえば、空間的な同時性と同時に、時間的な同時性もある、という洞察であり、通時的なものを共時的に捉える(「誰々とともに生きる」という表現の含意を探る)という方向性である(19770112、9頁)。たとえば、神話的に見た場合の対立とは、「一」と「二」ではなく、「合体した「一」と分裂した「一」の対立」(19770323、143頁)であるというような分析である。

プラトンからフーリエまでを概観したバルトは次のように結論づける。いわゆるユートピア思想は総じて、権力の理想的な組織化をめぐる「一」の議論、一元化の物語であり、それは彼の目指す「内的ユートピア」、主客が共存し、理性と感情が共存するものとは、大きく異なっている、と。バルトがはっきりと気がついている、彼が求めていたのは、そのような共存や共生を可能とするエクリチュールまたは小説の領域である、ということに。

プラトンからフーリエまで、書物の上のあらゆるユートピアは社会的なものだった:権力を組織する理想的な方法の探求。私としては内的ユートピアの不在をつねづね残念に思ってきたし、そうしたものを書きたいと思ってきた:主体と感情、象徴とのあいだの良き関係を表現し、予言する理想的な(幸福な)方法。ところがこれは厳密な意味ではユートピアとはいえない。これは単に――あるいはそれを超えて、過剰に――「至高善」の表現の探求でしかない。ここでは:「至高善」にいかに住まうかの問題。ところが「至高善」――その表現――は、主体化のプロセスにおける主体のあらゆる広がり、深さを、つまりは主体の全個人史を結集するものである。そのことを明らかにできるのはただエクリチュールのみ――あるいはこういったほうがよければ、小説的行為(ないしは小説)のみである。極度の主観性を受け入れることができるのはエクリチュールのみだ、なぜならエクリチュールには表現の間接性と主体の真実のあいだの調和があるから――パロールの領域では(ゆえに、演劇においては)不可能な調和、こちらはどうあがこうと、つねに直接的、かつ演劇的なものだから。(バルト『いかにしてともに生きるか』、講義集成1、19970504、194頁)

 

翻訳者たちが解説で述べているように、これらの講義集のなかで、バルトの方向性はあきらかに小説を書くことのほうに向かっていく。そしてその萌芽は、初年度にあたる1976‐1977年度の講義で明確に表出していた。次の年の講義は『〈中性〉について』と題されていたが、〈中性〉をとおして彼が探り当てようとするのは、〈中性〉そのものというよりは、「主体の全個人史を結集する」ことを可能にするようなエクリチュールの領域であるように思う。そのことを念頭に置けば、1979‐1980年度の『小説の準備』と題された講義の2年目において、バルトが伝記的なテクスト、日記や自伝的テクストのほうにますます惹かれていくのは、とてもよく理解できる。

1977‐1978年の講義の最初のほうで、バルトは「いかにしてともに生きるか」のリミットをはっきりと延長する。それは最愛の母の死という彼個人にとっての喪の作業と無関係ではないだろう。生きている生者だけではなく、すでに亡き死者をも含む共生、それをこそ、バルトは目指していくように思われるし、それは死んだ行為などではない。「喪は生き生きとしている」、バルトはそう述べる。死者を読むことによって、通時的な距離のあるものが、読書という行為のなかにおいて共時的に重なり合う可能性が追求されるのである。

そのテクストがもつ強烈な生命感と、彼が死んだことを知る哀しみとの間の矛盾を意識することで、わたしは動揺し、引き裂かれるのだから。わたしは著者の死にいつでも悲しくなり、著者のさまざまな死の物語(トルストイ、ジッド)に心を動かされる。→喪は、生き生きしている。(19780218、22‐23頁)

個人的にとても興味深いのは、前年に続くユートピア的主題の探求であり、その文脈で論じられる眠りの独我論性だ。ひとりで眠ってひとりで見る夢はひとりよがりである。二人での眠り――「夢なき眠り」――こそが、真にユートピアなものであり、共寝においてこそ信頼が醸成される。 

ユートピアとしての眠りは、結局一人ではなく、二人に結びつく形でしかありえない。独我論ユートピアは存在しえない。

1)このユートピア的眠りの形態は、二人で眠ることである。つまり、夢なき眠りを呼び寄せること:人は二人で夢みることはない≠夢は独我論的なもので、分け隔てる:それは独り言の原型なのだ。二人で眠ることは:本質的に――さもなければ偶然――夢のない眠りである(夢はナルシスティックなものなのだから)→二人での眠りというユートピアは、絶対的な恋愛行為として、そしてそれがどのような形で実現されようと、黄金の幻想として、欲望の対象となることができる。なぜか? 全体が信頼によって織り上げられた眠りだからだ。眠ること:信頼の動員。(19780304、75‐76頁)*1

エドワード・ベラミにしてもウィリアム・モリスにしても、主人公の男がひとり眠りに落ち、ユートピアと化した世界を旅する物語である。なるほど、彼らはともに、未来のユートピアにおいて二人で眠ることのできる/眠りたいと思う相手を見いだすが、その相手はユートピア世界に取り残され、主人公はまたひとり現実世界に帰還しなければならない。この文脈で言えば、日本の中世文学は共寝のエピソードの宝庫だろう。というのも、妻問婚は、まさに、共寝が行われるかどうかをめぐる駆け引きだから。とはいえ、それが信頼の動員となっているかというと、なかなか疑わしい気はするのだけれど。

 

民主主義と貴族主義 

共生のエクリチュールを探求すること、それは、傲慢ではないエクリチュールの可能性を探ることでもある(19780520、273頁)。バルトは、民主主義的であるべきか、貴族主義的であるべきか、最後まで揺れ動いているようにも思う。一方において、彼はスピノザの民主主義性を強調するシルヴァン・ザックのスピノザ論を引用する。

スピノザの深い考えは、ただ数名の人間だけが獲得できる本物の認識にもとづいた、貴族的思慮分別の到来こそが、民主主義が理想としてもっとも待望しているものだというものである。」(19780603、310頁)(シルヴァン・ザック『スピノザの道徳論』PUF, 1966, 3rd ed., 1972, p.114.) 

しかし、すべての講義をとおしてバルトの理論的支柱――すくなくともそのひとつ――を成すのは、ニーチェである。なるほど、それはニーチェの考えをなぞるためではなく、彼の考え方を再演し、そうすることで、ニーチェとは別の考えのほうに向かっていくためであるようにも感じるのだけれど、同時に、ニーチェのある種の貴族主義的な考え方を手放すことができないのも事実ではある。こうして、1979‐1980年度の最後の講義において、彼はマラルメの芸術貴族主義を参照せずにはいられない。

「人間は民主主義者であってよいが、芸術家とは二重の者であり、貴族主義者のままでいるべきなのだ」(『小説の準備』、 19800223、492頁) *2

 

読む欲望から書く欲望へ

 『小説の準備』のなかで興味深いと思ったのは、バルトがここで、読む欲望から書く欲望への移行について考えている点である。これはすぐさま、バルトが『S/Z』で提唱したscriptibleとlisibleという対比を思い出させるし、講義ではその対比に内在していたのかもしれない私的な響きがはっきりと聞こえてくる。

バルザックの大変美しい言葉を思い出す:「希望とは欲望する記憶である」。美しい作品はみな、さらには印象的な作品もすべて、望まれていながら不完全で失敗した作品として機能する。なぜなら私が自分でそれを作ったのではないからであり、それを作り直すことによってもう一度作品として見出さなければならないからだ;書くことそれは書き直そうと欲することである:美しいけれども私を欠いているもの、私を必要とするものに、私は自分を積極的に付け加えたいと思うのである。(19791201、223頁)

なんという身勝手な考え方だろう! しかしこの個人的な欲求や要求にこそ、欲望の散種の可能性があり、書き直しの約束が刻まれているのだ!

それにしても、バルトはどのような小説を書こうとしていたのだろうか。不慮の事故によって亡くなってしまったバルトには、彼が望んだ小説を書く時間は訪れなかった。しかしこれらの講義を読むことで、わたしたちは、彼が書こうとしていたものをかなり明確なイメージをもって想像できるような気もする。

それはおそらく伝記的な書き物であり、等身大のエクリチュールであり、ある意味では俳句的な感受性を備えたものになったことだろう。驚くべきことに、バルトはかなりの時間を割いて、日本の俳句を長々と論じている。そればかりか、細部を拡大させることで真実の星空まで跳躍し、そうすることで真実を一挙に象徴にまで昇華するというエミール・ゾラの手紙(18850322)を引き合いに出しながら、俳句の誇張も拡大もない実物大のエクリチュールのほうを好ましく感じているような気もする(137頁)。バルトに言わせれば、「俳句は在るものへの同意である。」(19790210、119頁)

バルトは最終的に、いまあえてハ長調の作品を書くことの可能性を宣言する(496頁)。そのようなほとんどノーガードの宣言が、フィリップ・ソレルスや雑誌『テル・ケル』と親しく付き合い、20世紀後半のいわゆる前衛文学と並走していたバルトの口から洩れるのは、意外な気がするかもしれないが、石井洋二郎が解説で述べているように(598頁)、この結論はむしろ講義の必然的な帰結だろう。バルトの本心からの言葉なのだろう。

 

ではそのような文学は、矛盾的なものが共存し、共に生きられそうにないものが互いに共生するようなエクリチュールの領域となる文学とは、何をなすのか。そこに絡んでくるのは、政治的正しさでもなければ、歴史的正確さでもなく、欲望の革命的可能性である。

じつのところ、文学が証しだてることのできる唯一の革命とは、欲望の内には高貴さの可能性があるということを絶えず新たに思い出させること、すなわち考えさせるように仕向けることである → いやそれ以上だ:欲望を高貴にすることなのである。(19800223、494頁)

欲望を高貴にする! それは人間の欲望の浅ましさや醜さがますますパブリックな領域で演じられ、デジタル空間を充たしている21世紀において、おそらくバルトがそう述べたときよりも、はるかに時代外れに、はるかに的外れに響くかもしれない。しかしこの恐るべきまでに時代錯誤的かもしれない約束にこそ、文学の可能性が賭けられているのかもしれない。

その可能性をかなえるのは、まちがいなく、人間の醜悪さではなく、人間の高貴さをエクリチュールにするという文学行為、バルトが果たそうとして果たせなかった書記行為である。それは、眼前の世界から目を背けることでもなければ、虚構的に創り上げられた理想の世界に引き込もることではないだろう。それはむしろ、世界のすべてを抱擁する行為であり、輝かしくも偉大な肯定の行為であるはずだ。すべてを肯定し、そしてなお、欲望を高貴にする、そのほとんど不可能に思える約束にこそ、文学の革命的な可能性が賭けられているのだ。

*1:ここでの議論にホモセクシュアルな欲望が賭けられているのだろうということは、バルトの伝記的事実を思うと、どうも間違いないことのように思われるのだけれど、その一方で、「夢のない眠り」がジェンダーセクシュアリティに縛られるものでないことは確かだろう。これは、性ではなく、数の問題である。

*2:これは「芸術家の異端――万人のための芸術」からの引用で、原文は、"L’homme peut être démocrate, l’artiste se dédouble et doit rester aristocrate." (Mallarmé. "Hérésies artistiques.")。注釈的に意訳すれば、「人は民主主義的であることができる、芸術家は自らを二つに分裂させ[人としては民主主義的でありつつ、芸術家としては]貴族主義的のままであらねばならない」という感じになるだろうか。