マルクスの永遠のライバルとしてのプルードン。マルクスの罵倒の常套戦略とは、相手の議論が誰かの二番煎じであることを徹底的な文献学的調査によって暴き立てることであるという。それはこじつけに近いところもあるが、論敵の信用を下げるうえでは一定の効果を上げるし、そのようにして相手を引きずり下ろしたうえで、自分をその上に置くような議論を展開すればいいだけの話ではある。そしてマルクスにはその両方をやる知的馬力があった。しかし、大学教育を得たマルクスに比べれば、プルードンは「思想的に本当に孤独」(31頁)であったと的場は言う。ルソーのような独学者であり、だからこそ、体系に学ぶということを知らない。そのような構造的な無知のおかげで、独創的な考えにいたることもあるが、その反面、体系的な知を築くことができない。しかし、思いつきから思いつきに飛躍していく闊達さは、マルクスが決して持ちえなかったものでもある。
プルードンの非体系的な知とは何なのか。的場に言わせれば、それは、哲学でも経済学でもなく、社会学である(34頁)。そして、プルードンのアナーキーは、まずなにより、宗教批判であり、宗教という巨大な権力支配の批判である。それは無神論のさらに先を行くものだ。というのも、人が神に取って代わること――フォイエルバッハの宗教批判――は、神が体現する権力の委譲でしかなく、権力そのものの批判ではないからだ。プルードンのヘーゲル左派批判、それは、「人間の神格化」(52頁)批判にほかならない。的場によれば、プルードンの特異性、ほかの社会主義者と決定的に異なる点は、徹底した権力批判である(108頁)。
やや散漫な印象を与える本ではある。プルードンの思想そのものに正面から対決するというよりも、プルードンをめぐる思想であり、プルードンをめぐる思索であるからだ。マルクスとの関係のなかのプルードン、ヘーゲル左派との関係のなかのプルードン、パリ・コミューン参加者との関係のなかのプルードン、ジョルジュ・ソレルとの関係のなかのプルードン、共産主義圏や西欧圏でのプルードン受容。プルードンについての本というよりは、プルードン現象についての本とでも言いたくなる側面がある。
的場が惹かれているのは、プルードンという人間、プルードンという人間が体現したもの――孤独な独学者、市井の感覚で考える独創家、無尽蔵のアイディアマン、図抜けた知的センスの持ち主――ではないかという気もするし、そのやり方は悪くない。だから的場は、プルードンという万華鏡のような人物――革命家、ジャーナリスト、議員、改革家――をさまざまな角度から照射してみせる。プルードンの影響圏にいた友人知人たち(ゲルツェン、クールベ、トルストイ)を浮き彫りにしてみせる。
プルードンを読むことは、マルクスを読むこととはちがう。プルードンは教義ではないし、プルードンのテクストを聖典のように解釈するのもちがう。いまある世界との関係のなかで、柔軟で執拗な批判を続けていくこと、いまある権力とはべつのものを打ち立てるための可能性を追求すること、そのためにこそ、プルードンは援用されるべきなのだ。
しかし、的場が繰り返し前景化するプルードンのモチーフがある。ジャーナリストとしての側面、実践家としての側面であり、独創的な独学家の側面である。そして、たとえ時々の持論で力点の置き所が狂うことがあっても、プルードンの発想には一貫した軸がある。「徹底した権力批判と、それを担保するための労働者の自主参加という課題」(188頁)である。それから、経済活動にこそ未来の社会のための可能性を見出す態度だ。的場はプルードンのそうした経済主義――革命よりも経済再編を優先させる――にこそ、ポスト資本主義のためのヒントを見出している。
とはいえ、プルードン的な路線がポスト資本主義のために援用できる、つまり、労働者の自主的な連合によって、資本主義が発展させてきた技術や構造を奪取してうまく運用できるという的場の夢想――「所有」も「権力」も越えた向こうにある「国家のない世界市民社会」、「アソシアシオンによる地域連合の社会」(216頁)――想定は、あまりに楽観的すぎるのではないか。「たとえ理想論だとしても」(216頁)と断りは入っているが、シェアリングやブロックチェーン、AIなどを駆け足で言及していく身振りは、それこそ、マルクス的な地に足のつかなさを露呈しているだけではないかという気もしてしまう。
結局のところ、的場はマルクスの磁場の囚われの身になっているのではないか。マルクスのためにプルードンをという態度自体が、的場を、マルクスの時代に送り返していくようなニュアンスがある。