うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

中途半端なものをラディカルに肯定し続ける:アイザイア・バーリン「理想の追求」『バーリン選集4』(岩波書店、1992)

われわれにはできることしかできない。しかし、いろいろ困難があってもそれはやらねばならない。(27頁)

いいとこどりはできない。アイザイア・バーリンマキャベリを読みながらこの結論に思い至るが、それはショッキングなことだったと述懐している。キリスト教的な美徳は、ローマ的な美徳と両立しない。隣人愛のようなキリスト教道徳と、ライオンの勇猛さとキツネのずる賢さのようなローマ的な徳目とを、首尾一貫したかたちで持ち合わせることはできないのだ。

「窮極の調和」(24頁)はありえないし、「永遠の哲学 philosophia perennis」(11頁)は不可能である。それはつまり、各時代や各地域の最上のものを折衷することで最上の最上を作り上げようとするユートピア主義にたいする、強烈な否定である。

 

多元主義の発見

バーリンの思想的遍歴は興味深い。マキャベリからヴィーコヴィーコからヘルダーへ、そしてゲルツェン。ヴィーコを読むきっかけになったのは、クローチェのヴィーコ論を英訳したコリングウッドの勧めがあってのことだったというが(12頁)、それはイタリア的伝統をさかのぼることだったのかもしれない。ヴィーコ読解の歴史をたどり直すかのように、バーリンはイタリア的伝統からドイツ的伝統へと移動していく。そして、彼自身のロシア的出自に立ち返るかのように、19世紀半ばのロシア的伝統に着地する。

「理想の追求」はバーリンの思想的遍歴でもあるし、バーリンの思想的確信についての要約でもある。プラトニズムの系譜(プラトンヘーゲルマルクス)の批判であり、一元論的体系化の批判である。宗教批判でもある。しかしその一方で、彼の世俗的信念の告白でもある。

ではバーリンが確信したこととは何か。

 

相対主義Relativismと多元主義Pluralismの決定的な差異であり、彼自身の多元主義へのコミットメントである。

バーリンが理解する相対主義とは、「私はコーヒーが好き、あなたはシャンペーンが好き、二人の好みは違っており、それだけのことだ」(15頁)という考え方のことである。それは、窮極的なところで、両者の不理解を受け入れてしまうし、両者の相互理解のための共通の地平そのものを放棄してしまう。

「私はあなたがなぜそれを好きなのかはわからない、しかし、それでも、あなたが好きなものは受け入れよう」という寛容さは、寛大さに転化してしまう危険をはらんでいる。「大目に見てやろう」という寛容さが、上から目線と紙一重であるからというよりも、寛容さという考え方そのものが、上下関係であるとか多数派/少数派というような権力関係を前提としているからだろう。キリスト教をスタンダードとする世界のなかでのイスラム教徒の容認、異性愛をデフォルトとする社会のなかでの同性愛の容認、健常者を前提とする社会のなかでの障碍者の容認、というように。「おまえの言ってることはわからないし、わかりたいとも思わない、しかし、おまえがやりたいことは認めてやってもいい」という傲慢さである。そこでは、弱い方の立場はつねに防衛的であらざるをえないだろう。自分にたいして恐れや恥ずかしさを感じざるをえないだろう。

 

バーリンヴィーコやヘルダーから引き出した多元主義という考え方は、一見したところ、相対主義と似ているように見える。ローマではライオンとキツネの美徳が、キリスト教世界では隣人愛という美徳が、というように。

しかし、多元主義において重要になってくるのは、複数の客観的価値が存在しているという存在論的な措定というよりも、「異なるものは理解可能である」という認識論的な態度であり、ヴィーコのあの有名な言葉(「歴史は理解可能である、なぜなら人が作ったものであるから」)から導かれる知の希望――たとえどれほど異なっていようとも、人間が作ったものは、まさに人間が作ったものであるからという理由により、何かしら共通のものがある――である。

多元主義は、異なるもの他なるものを、外側からではなく、内側から理解しようとする。それは、深く潜っていけば、必ずや共通のものに至ると信じているからだ。

この世にはさまざまな価値観が共存している。これを受け入れる点では、相対主義多元主義も変わりはない。しかし、異なった価値観を理解することなく容認するのが相対主義であるとすると、異なった価値観を理解しようと努めるのが多元主義だ。相対主義は、事実レベルでなら複数のものを受け入れるが、認識レベルにおいては自分が大事であるという態度を貫くだろう。多元主義は、事実レベルでも認識レベルでも、複数性を受け入れる。

もちろん、多元主義に立ったとしても、自分の価値観が完全に相対化されることはないだろうし、自分の価値観が他の価値観にたいして下位におかれることはないだろう。しかし、多元主義は理念レベルでの平等性を受け入れる。異なる価値観をもつ人々にしても、究極的には、自分と同格の存在であり、自分に比べて何ら劣ったところのない平等の存在であると考える。そしてそのうえで、自分の価値観を選び取るのである。

 

多元主義の倫理性、または両立不可能性と理解可能性

相対主義は価値観の衝突を避けるが、多元主義は価値観の衝突を受け入れる。相対主義の寛容とは、価値観の衝突を割避けるためのメカニズムなのだとすら言っていいかもしれない。それは問題と真剣に向き合わないことだ。相対主義の対応策はどこまでいっても対症療法であり、根治療法ではない。

しかし、多元主義は複数の価値観が両立しないことを知っている。つまり、ある時代や場所で培われた価値観がひとつの空間に結集したとき、そこでは必ずや軋轢が発生することを知っている。

おそらく多元主義がわたしたちに突きつけるもっともつらい真実とは、そうした軋轢が解決不能であるという点だろう。「一方が真で他方が偽」と断言できるような絶対的な地平や超越的な視点は存在しない。主観的に言えば、つまり価値観の内側からすれば、真は真であるというトートロジーにならざるをえない。狼が絶対的自由を求めれば、羊は死ぬしかない。羊の自由を確立しようとすれば、狼は不自由を生きざるをえない。

だが、解決不能だからといって、理解不能であるということにはならない。たとえ解決できないとしても、その問題を、「何らかの共感と想像力」(17頁)をもって理解することは依然として可能である。わたしたちの希望は、最終的にして完全な解決――すべての軋轢が調和した平穏な世界――ではなく、理解から生まれでた意志と信念にもとづく選択にある。

最良のもの最善のものは両立しない。それぞれの文化から、それぞれの時代から、最上のものを集めてきたからといって、最上のものが出来上がるわけではない。すべての価値観をひとつの容器のなかで融和させることはできない。窮極的な調和が不可能だからこそ、わたしたちは不完全なものを、何かしらの排除原理やヒエラルキー原理を持ち合わせているものを、選ぶしかない。

わたしたちは選択することを運命づけられている。しかし、その選択が果たして正しいかどうかは、決して確信できないだろうし、確信すべきでもない。なぜなら、それは決して完全でもなければ窮極でもないし、永遠でもなければ普遍的でもないからだ。わたしたちは自らの選択に安住することを許されていない。

 

選択の基準は?

では、どのような基準にしたがって、どのようなものを選ぶというのか。

ここでバーリンの議論は、倫理的でもあれば規範的でもある。「であらねばならぬ」と「べき」が混ぜ合わされている。そしてその根底にあるのは、ひとりひとりの自由の擁護であり、個人にとっての「いまここ」の絶対性である。

自由という単一原理の絶対化ではない。何かの「ために」――人類のため、進歩のため、来るべき未来のため、共産主義のため、ファシズムのため――という名目を振りかざし、誰かに「代わって」考えることは許されない。それでは、あなた以外の個人の自由を取り上げることになってしまう。他人の自由を封じることになってしまう。自由を謳いながら、平等を踏みにじることになる。

抽象概念で考えないこと、具体的な状況のなか、いまここに生きている人々のことを考えること。そのことを、バーリンはゲルツェンから学び取ったのだった。「限りなく遠い目標は目標ではない。欺瞞でしかない。目標はもっと近いものでなければならない。少なくとも労働の賃金とか、やっている仕事の喜びとか」(23頁、ゲルツェン『向こう岸から』からの引用)。

これはかなり消極的な自由の定義かもしれない。不干渉や不介入の原理を強調しすぎかもしれない。「極端の苦しみを避ける」(25頁)ことを第一の公的義務とするという提案には、功利主義的臭さがある。プチブル的、小市民的、という嘲りの言葉が投げかけられるようなものかもしれない。

しかし、バーリンの主張はまさにそこにある。美しい理念や崇高な理想によって個人の犠牲は正当化されない。目的は手段を正当化しない。「あれかこれか」では駄目なのだ。肯定的な妥協が必要である。わたしたちは間違えうるし、すでにもう間違っているのかもしれない。そのことを忘れるべきではない。

最善は原理的に不可能であるが、最悪は常に回避可能である。バーリンはそう言っているのかもしれない。不完全であることを受け入れる、しかしそれを口実とはせず、それに安住せず、不安定でしかないとしても最悪は避けられるような均衡状態を維持していこうと努力し続けなければならない。いちどそこに到達すればそこに居続けられるというような模範解答はない。わたしたちはつねに答えを探し続け、不完全な選択肢と格闘し、よりよきものを、よりましなものを作り出そうという努力を怠ってはならない。

 

面白くない真理、または避けられない妥協のラディカルな肯定

これが「非常に味気ない答」(26頁)であることは、バーリン本人が率直に認めている。ラディカルな理想主義でもないし、ドライな相対主義でもない。かなり漠然としたかたちではあるが、何が正しく正しくないというような客観的価値観(根本的な共通の価値観)は措定する。わたしたち個人が集団的価値観から完全に自由ではありえないことも受け入れる。純粋状態はありえないからだ。悪く言えば微温的でウェットな人情主義という感じもする。煮え切らないプラグマティズムのようにも聞こえる。

しかしこの煮え切らなさ、煮え切れなさをラディカルに追及するところに、バーリンのラディカリズムがある。中途半端なものをラディカルに肯定し続けることだ。

「われわれにはできることしかできない」(27頁)。そんな悲観的に響く言葉のあとにつづけて、バーリンは、対立が極小化される世界の可能性を「信じている」と述べる。それはもう、はかない祈りにすぎないのかもしれない。まるで信仰告白のようだ。

しかし、これは敗北主義ではない。完全な理想を断念することは、あらゆる理想を断念することでもないし、あるがままの現状を受け入れることでもない。完璧は無理だからといって、なぜよりよいものを目指すことまで否定されねばならないのか。

「いろいろ困難があってもそれはやらねばならない」(27頁)。ここに、押し付けではないプラグマティズム的な規範主義から導き出された、強烈な倫理的問いかけがある。わたしたちにはよりよきものを作っていく力がある、ならばなぜ、それをやらないのか? 楽しくはないかもしれないが、必要なのだ。

真理は真理であればいい、真理が面白かったり霊感にあふれていたり美しかったりする必要はない、と強調するバーリンは、陳腐で世俗的な世界をまっとうに生きていくための勇気をわたしたちに与えようとしている。