うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

キャス・サンスティーン『ナッジで、人を動かす』(NTT出版、2020):それとなく決定的な影響を与えることの倫理性

選択の誘導は、それ自体としては、たんなる技術でしかない。ある選択を優先的に促すようなアーキテクチャを作ることは、たんなる技術以上のものではあるが、それでも、ほかの選択が原理的にブロックされたり消去されたりしておらず、依然として選択者が自由に選ぶことのできる状況にあるのであれば、それは個人の幸福や自由や自律や尊厳を侵すものではないかもしれない。

つまるところ、自由な選択と言っても、本当の意味で自由であることはまれだ。わたしたちは自分たちが生まれ育った環境、いま自分が持っている資力や体力や知力、人間関係や居住地など、さまざまな要因のなかで可能になる、実際に選択可能なもののなかから選んでいるにすぎないのだから、ある選択を優先的に促すようなアーキテクチャは、tまったく特殊なものではない。完全なる選択の自由のほうがフィクションである。

キャス・サンスティーンは『ナッジで、人を動かす』の最初のほうで、古典的ベストセラーであるデール・カーネギー『人を動かす』を引き合いに出しながら、ナッジというファジーなもの(しかしそのような名前で呼ばれるまえからずっと存在していたもの)を説明しようとしているが、つまるところ、最新の心理学や行動経済学理論武装を取っ払ってしまえば、ナッジは古くからある統治技術や人心掌握術と劇的に違うわけではないとも言える。

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操作と誘導と影響は地続きであり、完全に区別することは不可能だろう。もちろん、熟慮をどの程度推奨するか(操作はそれを推奨しない)、自発的決定をどの程度促すか(誘導はそれを推奨しない)で、善意のものか悪意のものかといったパラメーターを考慮に入れることで、ある程度の差別化はできる。しかし、それでも、これらが同一線上のものであることは否定できない。

ナッジは悪のためにも善のためにも使える。ナッジは、強制ではない――強制されているという印象を与えないように注意深く設計された――影響であるからこそ、それを使うときには倫理性が求められるし、それがシステム設計の根幹にまで及ぶとなればなおさらである。

だからサスティーンの解説は二重になる。一方に、ナッジ自体の有用性(選択アーキテクチャによっていかに目的が効率的に達成されうるか)をめぐる説明があり、他方に、そのような選択的アーキテクチャを作り上げ、使用すること自体の正当性をめぐる説明がある。

こうしてサンスティーンは、くりかえし、福利 welfare、自由 freedom、自律 autonomy、尊厳 dignityについて語るのであり、それらが侵害されないようなかたちで、選択アーキテクチャを構築しようとする。

それはどうしようもなく矛盾した試みだ。選択アーキテクチャが任意の目的を達成するために構築されるものであるとするなら、設計者が選んでほしくないほうの選択を選ぶ余地をあらかじめなくしてしまうほうが、はるかに効率的である。しかし、それでは、倫理的なものがないがしろにされてしまう恐れがある。

効率最大化にたいするストッパーやブレーキとして、倫理的な価値観が導入されているといってもいいだろう。選択アーキテクチャにはそもそも備わっていない倫理性を、アーキテクチャに外装することでもあるし、さらにいえば、そのようなアーキテクチャの使用者の倫理性を鍛えることでもある。

こう言ってみてもいい。ナッジによる選択アーキテクチャは統計的に証明されたエビデンスを重視する結果主義――影響を与える側の意図や思惑を基準にした評価―――にもとづくが、倫理は個々人の内面や意思といった自発性(原因)主義――影響される側の判断を基準にした評価――であり、サスティーンの議論では、決して相容れることのないふたつのパラダイムがつねにせめぎ合っているのだ、と。

影響を与える側が正しいと考えていることが必ず正しいわけではない以上、それをくつがえし、キャンセルするための余地が、システムに内装されていなければならない、とも言える。実際、アメリカ独立宣言には、そのような自己変革の可能性――“whenever any Form of Government becomes destructive of these ends, it is the Right of the People to alter or to abolish it, and to institute new Government”――が最初から書き込まれているわけで、この方向性自体は特別奇異なものではないが、この自己否定から自己改革に至るプロセスがあるかないかは、システムの健全さ(自己硬直化をどれだけ回避できるか)という意味で、決定的な意味を持つだろう。

原書のタイトルはThe Ethics of Influence: Government in the Age of Behavioral Scienceであり、邦題の『ナッジで、人を動かす』は、きわめてミスリーディングだ。邦題副題は「行動経済学の時代に政策はどうあるべきか」だが、これもやや誤解を招くものであるように感じる。サンスティーンの議論の核にあるのは、アーキテクチャ/アーキテクトの倫理性の問題なのだ。それはつまり、システムがもたらす統計的な結果をめぐる客観的な評価の問題というよりも、システムが体現する理念、システムを構築する政府、システムを使用する利用者といった、行為者をめぐる問題が、本書の中心にあるということだ。

「人を動かす」テクニックについて、サンスティーンが取り上げる事例は、どれも示唆的であり、そこからさまざまなノウハウを学ぶこともできるだろう。しかし、「人を動かす」ことと同じくらい、「人を動かしすぎない」ことも重要であり、だからこそ、「できることをあえてしない」という倫理が必要になってくる。

「倫理」という言葉を書名から完全に消してしまうという方向性は、プロモーション戦略としては理解できなくもない。しかし、それは、行動経済学の知見を悪用しない熟慮的な善きアーキテクチャ、しかも、自らを改善していく柔軟性を備えたアーキテクチャを構築しようとするサンスティーンの倫理的な態度を裏切るものではないだろうか。