うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

翻訳語考。「生きづらさ」は翻訳できるのか。

「生きづらさ」というワードに、英語を教える者として、引っかかるものがある。どのような英訳が妥当かが、いまひとつわからないのだ。「hard to live」は違うような気がするし、そもそもこれだと名詞化できない。かといって「difficult」を使って、「difficulty in/with living」とするのも何かしっくりこない。いっそのこと、「struggle with living」はどうかと思いつくが、次の瞬間、これは「struggle for life」(生存闘争)に近すぎるからダメだなと思い直す。

英語から逆照射するかたちで考えたとき気になるのは、この「づらさ」が絶対的なものなのか、比較級的なものなのかという点。「生きづらさ」から、「生きやすさ」というワードを引き出すのは、自然な流れかもしれないが、果たして「づらさ」と「やすさ」は二項対立なのだろうか。ここに中間項やグラデーションはないのだろうか。

 

日本語話者が英語で深く考えるときのハードルのひとつは、概念をきちんと定義すること、つまり、他の概念から切り分けると同時に、他の概念とどのような関係を切り結ぶのかを言語化することではないか。思考と言葉の関係をあやふやにさせたままでは、議論は情緒的なところに流れてしまうだろう。

 

というわけで、ざっくりと腑分けしてみる。

自分の欲望/自分の現状

*「生きづらさ」の根底にあるのは「ままならなさ」——自分のなかにあるコントロール不可能なもの——だろうか。

*たとえば、肉体的な痛みであり、家族内での役割(例、ヤングケアラー)。

*家庭の経済状況をここに加えてもよいだろう。

*そのような「ままならなさ」が、「やりたいこと」と衝突すると、「生きづらさ」が生まれるようである。

*自分の欲望と、自分の現状のあいだの、亀裂

 

自分の能力/他人の能力

*「ままならなさ」は、「苦手なこと」と言い換えられるかもしれない。

*しかし、ここでポイントになるのは、他の多くの人が「できる」のに、自分(だけ)は「できない」という引け目なのだろう。

*この種の「生きづらさ」は、基本的に、他者関係的、人間関係的なものである。

*つまり、一対一というよりも、一対多=他において発生する集団的なもの。

*したがって、学校のような集団生活において表面化しやすい。

*自分の能力と、周囲の能力=期待のあいだの、亀裂

 

自分の存在/システムの規範

*「生きづらさ」を「排除」と関係づけることも可能だろう。

*たとえば、ジェンダー的な「らしさ」のような、社会規範

*社会規範がいわば不可視のもの(それでいて、「そこにある」もの)であるとしたら、法規範は言語化された可視的なものである。

*どちらにせよ、そこでは、期待が――たとえば、異性婚だけが「合法」であるという社会的規範が――押し付けられるのであり、それが、自己の存在のなかの変更不可能な部分と、衝突する。

*外から押し付けられる鋳型と、それにはまらない/はまれない/はまりたくない自己とのあいだの、調停不可能な軋み。

 

たしかに上記の3つのケースはどれも、「生きづらさ」という言葉でカバーできる何かかもしれないが、それらにたいする対処法は大きく異なるだろう。もし「ままならなさ」が、肉体的な痛みのような、医学的に治療可能な何かであれば、医学的に解消できる部分はあるかもしれない。「生きづらさ」が、経済状況や家庭環境によるものであれば、ソーシャルワーカーや公的福祉とつなげることで改善できるところもあるだろう。

ジェンダーのような、みずからの存在を規定する、生物的所与に近いものになると、自分が変わるというよりも――それは果たして、どこまで物理的に変更可能なのか?――社会システムのほうを変えていく必要があるし、それは必然的に、集団的な営為——社会運動——になるはずである。

では、他者関係に起因する「生きづらさ」はどうなのか。「苦手なこと」を努力によって克服することは、ある程度までは可能かもしれない。しかし、ここでの問題が、自己の(絶対的な)能力の問題というよりも、他者の能力との比較で測られる(相対的な)自己の能力の問題であるとしたら、その突破口をどこに求めたらよいのか。なるほど、ありのままの自分を受け入れてもらうというのはひとつの解決策ではあるが、他=多数が果たしてそれを嬉々として受け入れるだろうか。現状にとくに問題を感じていない多数派をどうやって説得し、納得させるのか。

 

個人的には、実存主義的なニュアンスが入るかもしれない「anxiety of living」とすると、英語話者にも案外通じるのではないか思うけれど、おそらくこれは、「生きづらさ」を感じている人からすると、「ちがう!」と言う訳ではないかという気もする。

「生きづらさ」が、存在の様態にかかわるものであることは、まちがいないだろう。それは、一方において、人間実存に固有の普遍的なものであり、その意味では、すべての人が、程度の違いこそあれ、「生きづらさ」はあるだろう。「わたし」と「世界」が何ひとつ齟齬なくピッタリと符合するということが、果たしてありえるだろうか(もちろん、「符号」していると〈思い込む〉ことは可能であるし、宗教的教義——たとえば「選民」という考え方——とはまさに、そのような思い込みを植え付け、強化する認識装置ではないだろうか)。

しかし、これは同時に、社会的歴史的に特定の様態でもある。集団的な規律訓練を、学校や職場をとおして内面化させる近代社会において、「生きづらさ」の出現具合や度合いはあまりにも大きく変動するため、既存の社会体制との親和性が高い層からすると、この意味での「生きづらさ」はほとんど感じられないか、または、感じるにしても克服可能なものに思われるだろうし、だからこそ、克服できないと言う層にたいして「自己責任論」を投げつけることになるだろう。

ともあれ、普遍的なものとして「生きづらさ」が、究極的にはどうしようもないもの、どうにか折り合いをつけるしかないもの——たとえば、人間が生まれ持った肉体構造のままでは空を飛べないことを受け入れるしかないように——であるとしても、社会的歴史的なものとして「生きづらさ」は、変更可能であり、変革されるべきものであるはずだ。そのためには、おそらく、マクロな意味での社会変革(システムの作り直し)と、ミクロな意味での自己解放(マインドセットの作り直し)の両方が必要になるだろう。

しかし、日本語の「生きづらさ」が名指すものは、なによりもまず、日本的な同調圧力の産物であり、さらに言えば、外在的な圧力というよりも、内面化されたものとしての圧力の産物であるからこそ、何かファジーな中間領域——私でも公/他/多でもない、「わたし」の内面にただようそれらすべての混淆——に姿を現すのであり、だからこそ、情緒的なもの、抒情的なものとして言語化されないといけないのかもしれない。だとすれば、英訳では、白黒が付きすぎて、表現として強すぎるようにも思う。

 

それはさておき、全方位に非攻撃的な「正しい」ことを言うこと、「誰も傷つけない」という姿勢は、倫理的には正しい。しかし、倫理的な正しさ「だけ」語っていればいいという問題ではないはずだ。というよりも、倫理的な正しさを語るとき、みずからをいわば「安全圏」に、「誰からも傷つけられない」ところに置いているのではないか。「優等生的」な「正解」は、美辞麗句に終わってしまう危険性がある。

「生きづらさ」を解消するための活動は、きわめて多様なものであり、「生きづらさ」というあまりにも大きなワードでひとまとめにしてしまえるような人のすべてを救えるような万能策は存在しないだろう。

 

ということを踏まえて語らなければ、「生きづらさ」の議論は英語には載らないような気がする。