うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

特任講師観察記断章。下から目線の「空気読んでくれますよね?」の態度。

特任講師観察記断章。甘えるような媚びるような、しかし、そのように振る舞えば自分の要求はきっとわかってくれるはずだという確信と期待に充ちた下から目線の「空気読んでくれますよね?」にたいして、どう対応すべきか。

学生たちの振る舞いが、これまでの刷り込みの結果だというのは、よくわかる。しかし「先生の○○という授業を取らせていただいている××です」という書き出しを見ると、ほとんど憐れに思う。「取らせていただいている」はコピペのようなもので、そこに卑下の気持ちなど隠れてはいないのかもしれない。字義通りに受け取る必要はないのかもしれない。けれども、「させていただいている」意識は、どこまでいっても、尊厳や人権に出会うことはないだろうし、上であるか他人であるか世間であるかを問わず、何かから「許されている」という受動性が根底にあるかぎり、自尊心はつねに監視状態に置かれ、自ら動くことができないだろう。「何かやってみる」ではなく、「何も余計なことをしない」が、デフォルトになってしまう。言葉を新たに作り出すのではなく、ありふれた言い回しを機械的に繰り返すだけになってしまう。

他人の気持ちを先回りし、まだ起こっていない未来を先取り的にフィードバックするという「おもてなし」の気づかい自体は決して悪いことではないけれど、下から上への「忖度」があまりに隅々にまで染みわたった結果、下も上も予定調和という名の精神的牢獄の虜囚として振る舞わなければならないというのは、あまりにも不自由だ。そのような箱庭的疑似世界をリアルで全世界に当然のように期待する狭い心は、息苦しいだけだ。

何が正解なのかはまだ見えていない。無意味な謙譲語を処世術として内面化してきた結果できあがってしまったものがあるし、そうした社会のなかでこれからも生きていかなければならないという事情もわかるから、それを食い破れとストレートに言ってしまっていいのかという気がする。だから、忖度をパロディー化するかのように、自分の日本語能力が許すかぎりもっとも婉曲的な言い回しを使って、「空気は読みません」と答えてみることにした。

「お訊ねの「対応」とはおそらく……何か別のものなのだろうということまではどうにか理解できなくもありませんが、その先にあるらしいあなたの真意を、それをはっきりとは語ろうとしないあなたのために、わたしがあなたに代わって語るべきであるとはどうしても思えませんし、そうしてどうにか語ることのできるようになったあなたの真意かもしれないものにたいして取りうる「わたし」の対応をわたしがここで先取りして語るべきであると思わなければならない理由をわたしはひとつとして思い浮かべることができません。」