うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

チェリビダッケとベルリンフィルの出会い:リズミックな硬さと雄大なしなやかさ

チェリビダッケのスローテンポは、近くによりすぎると止まっているように見えるけれども、離れてみればすべてが動いていることがわかる悠然とした大河の流れを思わせる。でっぷりと腹の出たチェリビダッケの座った身体が水面下の動きのない動きをマクロに体現しているとしたら、指先でつまむようにして手のひらのところで緩く握られた長いタクトは水面で起こるミクロな動きの現れなのだ。

チェリビダッケの指揮棒それ自体は、雄大な流れを作り出さない。おそらくそこはリハーサルで作り込んであるのだろうし、究極的にいえば、大きな流れは、作るのではなく、作られるものである。最初の音から、いや、音が出る前から流れは始まっている。一音目を正しく引き出すことができれば、その流れをさえぎらないようにじっくりと見守っていけば、あとはほとんどおのずから音が広がり、膨らんでいく。それで音の連鎖が始まる。

チェリビダッケの指揮はそのように流れるほどに溜まっていく動きを邪魔しないことを心掛けているように見える。だからチェリビダッケの指揮は、パウゼでも完全には止まらない。どこかは動いている。しかし、体幹を上下に揺すって水面をかき乱すようなことはしない。

その一方で、ミクロな音の運動は、神経質に、丁寧に、作り上げていく。キュー自体は鋭く細かい。楽器の入りを示すため、音量調節を伝えるため、フレーズを強調するためだ。とくに裏拍の付点のリズム。とくに弦楽器のピッチカート。どれも細部の指示であり、そのときのチェリビダッケがみせる動きは、軽やかにリズミックで、瞬間的には芯のある硬い上下運動になるけれども、そのときでさえ、彼のタクトがぐっと握り込まれることはないように見える。ある程度の硬さはあるが、かたくなな硬さではない。

チェリビダッケは音を緊張させすぎない。緩ませるわけではないけれども、閉じた音を出させない。それは奏者の側からすると、相当むずかしい要求だ。難しいパッセージ、大音量の箇所になれば、どうしても体は興奮し、力が入り、筋肉が収縮する。ベルリンフィルのような凄腕の団体であれ、身体の生理的反射を変えることはできない。

奏者たちはかなり演奏しづらそうだ。チェロの首席のあからさまなオーバーアクションはほとんどやけくそになっているようにも見える。しかし、どれだけ苦戦しているような表情を浮かべようとも、音を粒として硬く引き締めるのではなく、線や面として薄く軽く開き、力業で押し切るのではなく、互いに響き合わせられてしまっているのは、さすがはベルリンフィルというところか(とはいえ、1楽章の終結部などは、弦楽器と金管の縦線がズレて、崩壊寸前ではある)。

まったく異常な演奏だ。ミュンヘンフィルであれば、チェリビダッケの意図をくみ取った、もっとこなれた演奏になっていたところだろう。ベルリンフィルほどの団体でなければ、ただの弛緩した演奏になっていたかもしれない。しかしここでは、ミクロな運動とマクロな流れがシンクロし、カンタービレの響きがその中間を充たしている。真剣に聞く以外の聴き方を許さないたぐいの演奏。

 

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