うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

軽さと速さの遊戯:マリオ・ヴェンツァーゴの疾走する綱渡り

マリオ・ヴェンツァーゴの演奏は軽さと速さの遊戯である。CPOとのブルックナー全集の軽量級っぷりは、ほとんど常軌を逸していると言ってもいい。敏捷さをここまで前面に押し出した演奏は聞いたことがない。

とはいえ、この軽さが古楽器の影響なのかというと、ちょっと首を傾げてしまう。たしかにスルスルと流れていく。けれども、全体の構築は堅固だ。すべてが流動的になっているわけではない。枠を確定したあとで、それをギリギリのところまで加速させているような印象がある。

ヴェンツァーゴがウィーン国立音楽大学教授にして名伯楽のハンス・スワロフスキーに学んでいるというのは、なにか不思議なまでに腑に落ちる。

スワロフスキーの音楽自体がそもそも奇妙な部類に属するものだ。客観性と抒情性の慎ましい同居。過剰はないが、不足があるわけでもなく、それでいて中庸と呼ぶにはあまりに独特な普通。

1948年生まれのヴェンツァーゴは、世代的には、同じ教師の下で学んだシノーポリ(1946年生まれ)、ブルーノ・ヴァイル(1949年生まれ)と同じぐらいになる。しかし、スイス生まれのヴェンツァーゴが歩んできたキャリアは華やかではない。2流とは言わないがマイナーなオケやオペラハウスを渡り歩いてきている。

しかしそれでいて、変にヒネたところ`がない。彼の音楽の速さや軽さは決して逆張り的なルサンチマンの現れではなく、真正な音楽的確信に端を発するものであるように聞こえる。

ノンビブラートの弦の線が織りなす、ツルツルした化繊のようなテクスチャーから、木管の旋律がヒョロりと浮かび上がる。木管金管の重音が敏捷にかぶさってくる。

それは綱渡りのように危うい音楽だ。すべてが流れていくなかで、水面のいちばん表層を流れていくものをさらに前面に押し出して流していく。しかし、表面に浮かび出ながら、そこからはすこしも突出しないという、ギリギリのラインを突いてくる。マスとしてひとつにかたまりながら、旋律をその輪郭の上に這わせる。その細い道を悠々と疾走していく。危うさをスリルに変えながら。

ヴェンツァーゴの演奏の愉しさは、最初の1音にはない。これは流れていくほどに面白くなるたぐいの演奏だ。音楽の急流に身を任せているうちに、その軽やかさが愉しくなってくる類の演奏だ。

 

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