うろたどな

"These fragments I have shored against my ruins."

バレンボイムの晩年の様式

バレンボイムも80歳近くなり、さすがに体が利かなくなってきた部分があるのか、足を揃えてすっと指揮台に立ったまま、ほとんどそこから動かない。上下運動が基調となるタクトの振れ幅は大きくない。もしかするとあまり肩が上がらないのかもしれない。しかし、ときおり見せる、捩じり込むような、突き刺すような指揮棒が、音楽を深く深く抉る。さりげないキューが、対位法の入りを的確に示し、旋律を浮かび上がらせる。

中音域の音色が分厚い。低弦の重量感は運動性を失うことがなく、全体を支えながら、自らも動いていく。オールディーな解釈ではあるけれど、古楽器的な部分がないわけではない。フレーズを細かく深く閉じるのではなく、ふわりと次につなげていく。パウゼが軽い。

バレンボイムの音楽はどこか雑で、落ち着かなさがあるというのが個人的な印象だった。やりたいことがありすぎて、そしてありすぎるやりたいことをできてしまう才能があるがゆえに、いまひとつ焦点の定まらない音楽になっているという印象があった。

しかし、このエロイカの演奏には、不思議なまでの無頓着さがある。すべてをコントロールすることを目指していない。完全なコントロールを放棄しているというのでもないし、オケに委ねているというのでもなく、それを超越したところで、何か別の統合を志向している。

各パートの音離れがよく、対位法的なところが強調される。ベルリン州立歌劇場のオーケストラの音の渋さと相まって、枯れたニュアンスがある。音は充実しているし、潤いもあるけれど、ここに鳴り響く音には、外に拡がっていく豊饒さではなく、凝縮した高密度のしなやかさがある。それがあまりに烈しいので、ときに、ひとつのオーケストラの音というより、別々の生命を宿した運動体が拮抗しているような手ざわりさえある。

にもかかわらず、全体の音楽はバラバラにならない。対立し、対決しているのに、すべてがなぜかとても穏やかに澄んだ感じもする。同じ次元では相反するしかないものが、別の次元で独自に運動するように導かれているがゆえに、一方が他方に還元されることもないまま、せめぎ合いながらも共立している。

バレンボイムもまた、今は亡き盟友サイードアドルノを引き継ぎながら練り上げようとした、あの「晩年の様式」という極地に至っているのかもしれないと思う。

 

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