20190525@静岡市美術館
まるみ、しなやかさ、つよさ
まるみをおびた線。円い顔、丸い頬。弱いわけではない。かよわいわけではない。柔らかく、しなやかで、すべてをやさしく受け入れてはきちんと跳ね返す。不思議な強さが宿っている。
小倉遊亀は戦後わりとすぐの時期にマティスのような20世紀の西欧画家から積極的に学んだ絵を発表しているが、それらの習作群は、日本画と西欧モダニズム絵画の共通の関心領域を浮かび上がらせるとともに、日本画の特異性がどこにあるのかを明らかにしてくれていたように思う。
遠近法とはべつの仕方で
日本画の知識をほとんど持ち合わせていないわたしなので、ここで言うことはあくまで個人的な直感にすぎないのではあるのだけれど、ルネサンス以降の西洋絵画と比較した場合、近代日本画は遠近法にたいする抵抗であると言っていいような気がしている。奥行きとはべつの空間構成の探索である。ここでは2次元的であることが徹底的に追及されている。それはやや太めの線であるとか、フラットな面、陰影をあまりつけない色使いであるとか、奥行きを同一平面に翻訳するというコンポジションである。
それを反‐リアリズムというのは、すこしちがうだろう。反‐ミメーシス的、反‐写真的と言ったほうが、おそらく妥当である。見えるようにただ写しとるのではなく、すべてを意図的に再構成するのだ。3次元の空間にあるものを、画布という2次元のうえに置き換える作業であり、そこには、人為的なプロセスが必然的に入りこんでくる。
セザンヌがやろうとしたことにかなり近いとも言える。セザンヌの静物画は、決して見えるようには書いていない。そこでは、複数の視点からえられた角度が、ひとつの平面のうえで共存させられている。ずっと上のほうからの見え方の盆と、横のほうからの見え方の果物。それは現実には決してありえない合成である。それは画家というフィルターが変容した視覚イメージである。
2次元的なデザイン
デフォルメ、と言ってもいい。なぜ浮世絵が19世紀後半にヨーロッパの画家たちに大きな影響を与えたのかがわかるような気がする。浮世絵において遠近法が完全に否定されているというわけではないと思う。しかし、そこで遠近法は、いくつかある空間構成の論理のひとつにすぎないし、もっとも支配的な構成原理ではない。2次元的デザインの美的価値のほうが、3次元的現実への忠実さよりもはるかに重要なのだ。デザインのために、現実を正しく写し取らないことが正当化される。
とはいえ、そこでは、現実のモデルが画家のアイディアを描くための単なる道具や口実にまで格下げされているわけではない。現実は依然として描写されているし、そこに記録的価値は依然としてある。しかし、それは客観的なデータというよりは、画家の主観的な印象である。客観的に存在するものについての主観的な記憶である。
おそらくゴッホやセザンヌたちは、非リアリズム的な平面化を、きわめて個人的に押し進めた。セザンヌはとりわけコンポジションにおいてであるし、ゴッホの場合は筆致の果たした役割が大きいように思うが、どちらも、絵画のデザイン性、デザインの現実からの独立性を高めるための、美学的実験ではなかっただろうか。この傾向はキュビズムにおいて、集団的なものに、メソッド的なものにまで高められていくだろう。
平面化のメソッド、または日本画という伝統
日本画がジャンルとして取り組んできたもの、伝統として発展させてきたものは、まさにそうした、非リアリズム的な平面化のための方法論だったようにも思う。しかしそれは、同時に、ありのままという写生的リアリズムよりも、伝統的なモチーフやステレオタイプの再生産でもあった。山水画に描かれる山や川は、もはや、実際の山や川ではなく、山水画における画題としての山や川であり、山水画というジャンルが定める山なるものや川なるものでしかない。そうなってくると、絵画は、現実との照応関係ではなく、過去の絵画との相互関係において、文学理論的に言えば、間‐テクスト性intertextualityにおいて理解されるものになっていく。そこから生まれてくるのは、伝統の盲信であり、師匠や学派への全面的追従だろう。というのも、描くということは、個人的で自発的な試みではなく、集団的に受け継がれてきたものの意識的な焼き直しであり、そのために、これまでのレパートリーを保持している人びとから学ぶことであるからだ。
しかし、興味深いのは、明治期におけるリアリズム的な西洋絵画との遭遇が、そうした日本画の伝統的自己参照性の問い直しにつながったらしいという点である。展覧会には速水御舟の作品が何点かあったが、速水の線画的スケッチは、きわめて写生的であり、きわめてリアリズム的である。しかしながら、屏風に落としこまれるさい、リアリズム的なものがスタイル的なものに翻訳される。具体的な花々であったはずのものが、花なるもの一般の表象となる。スケッチにおける凹凸ある陰影は、フラットな塗分けとなる。それはまちがいなく、具体的に存在したものに端を発するものであるし、そことのつながりは切れていない。速水は現実にあるものを克明に、鮮明に描き出そうとする。しかし、そのプロセスは、最終的に、現実そのものの模写ではなく、画題の一般性――それは脱‐文脈的で、超‐時間的なものであると言っていいのかもしれない、プラトンのいうイデアのようものだ――のほうに向かっていく。
写実性をくぐって伝統を抜けて生に至る
小倉の絵は「深く」ない。 奥行きがないからだ。しかし、それは彼女の絵が薄っぺらいということではない。その反対だ。画布の向こうもなければ、画布の手前もない。ただひたすらに画布そのものだけがある。ただひたすらに、2次元の画布のうえに描かれたものだけがある。
小倉は、一方において伝統的な日本画を引き継ぎつつ、他方では西欧近代絵画の問題――絵画的表象の自律性――と常に向き合い続けたのではないかという気もする。小倉の絵画には、ひたむきな写実性がある。しかし、それは画布の向こうにあるモデルを忠実に写し取るためではない。その逆だ。小倉において、写実的であることは現実からの解放なのだ。眼前の花や果物を、器を人物とひたむき向き合うことによって、小倉は、具体的なものの向こう側にある抽象的なものを、画布のこちら側のほうに浮かび上がらせる。日本画の伝統的な手法やレパートリーを彼女は引き継ぐだろう。しかし、そうした伝統のほうを優先させることはないだろう。
彼女が描いたものは現実の誰かや何かの似姿かもしれない。しかし、それらは同時に、極私的な彼女自身のヴィジョンでもあり、そうでありながら、普遍的なイマージュでもある。
具体性、主観性、永遠性。小倉の絵画においては、これら3者が奇跡的なバランスで競合し、心地よい緊張感を作り出している。それはひたすら高みに上っていくような昇天的なものではないし、ひたすら暗く沈んでいくような悲劇的なものでもない。この世にあることのよろこびとかなしみを、しずかなつよさとともに、すべてあますところなく肯定しようという生のありかたではないかという気がする。
いくつか思いついたことを書き留めておく。掛け軸にしても、巻き物にしても、屏風にしても、日本画のアスペクト比は西洋画のそれとは大きく異なるように思う。もし西洋近代絵画が奥行によって時間性を取り込もうとしたら、日本画は、縦や横の長さのなかに時間的推移を描き出そうとしたのかもしれない。実際、屏風には複数の時間的瞬間が描きこまれていたりするし、巻き物をたぐるという行為は時間的なものである。つまり、横や縦に長いということ、全貌をつかむためには場所を移動したり、一瞬ではない時間をかけなければならないということは、日本画がそもそも時間経験的なメディアであり、絵画というよりは映像なのだということかもしれない。そう考えていくと、日本画から漫画――漫画もまた、複数の画像による時間的推移の表象である――に通じる線を思い浮かべることは、あながち的外れではないのかもしれない。
デフォルメのほうへ、または戦後漫画の方法論
リアリズムに始まりながら、リアリズムには着地しない。写実的スケッチから始めながら、デフォルメ的な変容に向かう。このリアリズム的な非‐リアリズムは、手塚治虫たちの漫画の方向性とパラレルではないだろうか。もちろん、手塚はのちに劇画的なもの――リアリズム的なリアリズム――の方向にも進んでいくことになるが、藤子F不二雄のドラえもんのような漫画は、デフォルメ性とリアリズム性を共存させていくだろうし、デフォルメそれ自体をスタイル化し、反復可能で複製可能なメソッドに練り上げていくだろう。
小倉のまるくなめらかな線はどこか石ノ森章太郎のキャラクターたちを思わせる。小倉のしなやかで強靭な線は山岸京子のキャラクターたちを思わせる。とくに山岸京子の古典王朝ものを思い出せるのだが、これは、小倉が谷崎潤一郎の「少将滋幹の母」の挿絵などを手掛けていたことを考えれば、まったく突拍子のない連想というわけではないのかもしれない。